利休三昧(四)

 そして、僕にとってやはり一等高みに位置づけられたのが野上版(3)『秀吉と利休』。海音寺の(1)『茶道太閤記』が確立したという「超絶の俗物・秀吉vs.美の求道者・利休」その美意識の対決、という構図を完成させ、最も深く繊細に掘り下げたのが本作であると思う。
 現代小説の読み易い文章に慣れてしまった目には、正直かなり手強い文章で、読み進めるのに時間がかかる。歯ごたえがある。架空の人物をうまく溶け込ませ、当時の風俗を的確に織り込み、単純に原因は「これ」とは言い難い、しかし決定的な二大人物の心の愛憎対立を描ききっていく。最終的な引き金としては、朝鮮出兵に対する何気ないひと言が端緒とされていた。
 これぞ文芸、と感じる。簡単には言い表しようがない心理を、丹念に粘り強い描写の連綿によって納得させていくのだ。人物像も奥深い。実は、この作の利休が諸作の中で一番カッコ良くはないと思う。自死の瞬間でさえ、本心ではそれを「よし」としていたかどうか。しかし、そこに「人間利休」を強烈に感じさせるのだが、どうか?
 高弟山上宗二も本作での描き方が好きだ。山本版(7)『利休にたずねよ』でのそれは、あまりに人物が軽かったように見えて物足らない。いつも悪役の石田三成は、海音寺版(1)『茶道太閤記』での描かれ方が味があって好きだ。このように、実在人物が登場し、実際のエピソードも数々描かれるから、それらの扱い方の比較も面白かった。
利休自死の謎に迫るということは、つまり利休の精神に迫るということであり、侘び茶の美学に迫るということである。この道のために、俗物ではあるが大人物でもあった時の権力者秀吉との蜜月も必然であったし、決別もまた必然であった。このあたりの機微、そして切り込みの深さ加減が、作家それぞれで実に興味深かった。生き方、精神の在りようについて考えることにもなったこの一、二か月ほどであったし、やはり茶道への憧れは一段と増した。 (あと一回、つづく)