どこまでドンデン返せるのか(エラい長文です)

 サスペンスやミステリーの物語において大切な「大どんでん返し」。意外な展開。意外な黒幕。意外な犯人。しかし人間の考えることだから、いつか限界が来るのじゃないのか。ここ暫くの読書で、そんなことをつい考えた。
 書評や人のすすめで立て続けに読んだ本。
『その女アレックス』(ピエール・ルメートル
『最後のトリック』(深見黎一郎)
イニシエーション・ラブ』(乾くるみ
 何れもネタバレ厳禁のストーリー。確かに「そこ」を楽しめた読書ではあったのだけど、上記のようなことを思わずにいられなかった。
 『その女アレックス』は、別に「大ドンデン返し」がある訳ではない。ただ読み進めるに従って、主人公に対する感じ方が次々と変わっていく。結果として読後の感じは、読み始めるときの「心づもり」とは全くかけ離れた地点に着地してしまってびっくりする。そういう意味での意外な展開。最初から読者に知らせずにいる情報がかなりあるので、正統派ミステリーファンからの批判が強いとのこと。僕自身はそのへんのこだわりはないので単純に楽しんだ(「楽しむ」という単語を使うには、キツい描写が多いので多少語弊はあるが)けれど。
 逆にその「正統」にこだわったのが『最後のトリック』。タイトルの云う最後のトリックというのはミステリーファンの間では馴染みのある命題だそうで、「犯人は読者だった」というもの。これまで古今のミステリーで多くの「意外な犯人」が生み出されて来た。出尽くした。もうどんな意外な犯人にも意外さを感じられなくなってしまった。で、最後に残されたもっとも意外な犯人。そして、まだ誰もそのトリックをものした作家がいない犯人。それが「読者が犯人」。このオチ自体は作中冒頭で宣言されており、では一体何がどうなれば読者が犯人になるのか、ということに収斂されて行く。そして、まあ、ちゃんとそういうことになる。ただ、それがそんなに面白いかと訊かれると…。僕はフェアで知的なゲームとしての謎解き「正統ミステリ」にあまり興味がないのかもしれない。むしろ正統派ファンからは「これはミステリじゃない」などと批判もあるが、人間ドラマとしてよくできていると感じられる作品を面白いと思う。そこは人それぞれの嗜好の違いなのだからしょうがないと思うのだけど。
 『イニシエーション・ラブ』は、「最後の二行で全く違う物語になる!」ということが喧伝されていて、ごく普通の恋愛物語のはずだったのに、最後の最後に「え〜!」となる。その一点のために緻密に構築されたドンデン返し作品。それゆえに、本作の「恋愛ドラマ」自体が(おそらく「あえて」)ものすごく凡庸で、そのぶん自分自身に思い当たるところがあって共感できる読者は多いだろう。僕自身もそういう部分はあった。その一方で、読み終わってみればストーリー自体は読むほどのものでもなかったと思ってしまう。物語の舞台の80年代に青春時代を過ごした世代にとっては、この緻密な細工がわかってしまうことが多いだろうから、読者は若者に絞られているのだろう(僕自身その世代だが、若いころ全く芸能界・テレビの世界に疎かったため、その細工には気付けなかった。ただ何となく、sideBに入ってからの違和感のため、「オチ」には感づいてしまったのだけれど。)
 これもまた「トリックを楽しむ」こと自体に特化した作品で、そこに意義を見いだせないと作品を高く評価できない。逆にトリック好きの人にはものすごく面白いのかもしれない。
 で、つくづく感じたのが、トリック自体で勝負する作品というのは書きにくくなってきているのかな、ということ。ネタ切れ、ということもあるだろうし、もう「それ」だけで読者を感動させるのが難しい時代になっているのでは、とも思う。あくまで僕個人の嗜好の問題なのかもしれないけれど。僕自身は、以前感想を書いた『007/白紙委任状』のように、必ずしもミステリー要素が強くなくても成立する007という世界に、ほど良く「ドンデン返し」が加味されて新しい味わいになった、というくらいが面白い。

 そうそう、突如思い出した、驚愕のトンデモ展開で読後しばし呆然となってしまったのが森博嗣の『スカイ・クロラ』シリーズ。これも以前相当詳しく書いたけれど。映画『スカイ・クロラ』はこのシリーズが完結する前に創られたものなので、映画自体は原作とは全く違った面白い作品になっているけれど、僕の言うトンデモ展開とは無関係です。