『許されざる者』と『許されざる者』

 もともとイーストウッドの『許されざる者』が大好きでした。これを渡辺謙が主演でリメイクするという話は以前から聞いていて、「それはいいねえ!」と無邪気に思い、公開を楽しみにしていました。
 しかし、作品が完成し、テレビでいろいろとプロモーションするものが目に入り出すと、自分の無邪気さに雲がかかってきました。
 目にする映像が、何れもあまりにオリジナルそのものなのです。
 もしもそのまんま再現した作品なのであれば、それは果たして観て面白いものなんだろうか? それだったらオリジナルを見直せばいいんではないのか? そんな疑念がむくむく湧いてきたんです。
 重い足取りで、それでもやっぱり観に行きました。杞憂でした。
 物語の展開は、それこそびっくりするくらいオリジナルそのものです。しかし、登場人物の内面がことごとく違う。オリジナルではモーガン・フリーマンが演じていた旧友の、狡猾さ・卑小さ。しかし最期に見せた骨の太さ。ジーン・ハックマンが演じていた町の長官の内面の「恐れ」。大変貴重だったのは若いスコーフィールド・キッドの役に当たる青年がアイヌの血を引く人物という設定で、彼が抱える悲しみや怒り、そして最後に提示される「もうひとつの生き方」が、この作品に新しさを持ち込んでいたと思います。顔を切られた娼婦も同様。
 主人公も随分違う。オリジナルのウィリアム・マニーはかつては理由なき殺人者だった。新作の十兵衛は「お役目」として人を斬り、追われて生きるため止む無く殺しを続けた男だった。個人的には、ここはオリジナルの方が理屈のつけようのない「業」を強烈に描いていたと思います。保安官との対決も、それこそ何が善で何が悪なのか全く判別不能になる、とにかく本能同士の対決と見えた。そこが、新作はちょっと主人公に言い訳ができる余地ができてしまっている。でも、演出と役者の気合がそれらを吹き飛ばすような猛烈な熱風をたぎらせていましたが。
 (以下、ネタバレ注意!!)
 逆にラストは新作に深く唸らされました。オリジナルで唯一不満だったのは、ラストの字幕で家に戻った主人公が姿を消し、異郷で商売に成功したらしい、と語られていたところ(これとて伝聞であって事実とは限らないのですが)。新作は、一線を越え、もとの人殺しに戻ってしまった主人公は家に戻らない。何処とも知れぬ吹雪の中を、痛手を負ったままさまよい続けるのです。これぞ、この物語のあるべきラストシーン、と痛感しました。

 よくよく考えると、20年近く以前、オリジナルの映画を観たとき、自分はこの映画を理解していたのかな? という思いが沸き上がります。最終局面で、それまでどう見ても善良な年寄りにしか見えなかった主人公が凄まじい表情に豹変する、その瞬間に慄然としただけではなかったか? それだけでも観る価値のある作品だとは思いますが。いま、新作を見直したことにより、なんともしようのない人間の業のすさまじさを改めて目の当たりにしました。