ソボクナギモン(2)

 「問いかけ」というやつには、「最初から答えを求めていない問いかけ」「そもそも答えようがない問いかけ」があるのだと思う。たとえ発する側の意識としては、純粋に「素朴な疑問」であったとしても。
 内田樹さんの『うほほいシネクラブ』(文春新書)第三章「小津安二郎断想」中の、「問うこと」の暴力という項にこういうことを書いておられた。曰く、人の気持ちや行いの本当の意味というのは、自分でもわからないものであって、それを「なぜ」と問われても答えようがない。だからそういう答えようがない問いを発するということには大変な邪悪さが潜んでいるのだ、と。それは「真実の探求」とは似て非なるものである、と。
 僕はこれを読んではたと膝を打った。「どうしてあんなに何個も何個も鉄砲があんの?」と問われた時のあの困惑が腑に落ちた。前記の銃の魅力云々というのは、もちろん後付けの理屈である。
 問うた方には素朴な疑問であったと思う。しかし実はそこに答えなど求めてはいなかっただろう。問いかけたかっただけだ。問いを投げつければ気は済むのだ。実は、そのような「問いかけ」はしばしば存在する。けれどもそういう「問いかけ」は、多分に自己完結的なものであり、コミュニケーションや他者理解を希求してのものではない。
 多く「問うこと」を仕事とする職業に就いている者として、そのような種類の「問いかけ」によって相手を追い詰め、ひいてはコミュニケーション不全を自ら招くようなことを厳に慎まなければならないと思い至った次第である。やはり本は読むものである。