ソボクナギモン(1)

 「どうしてあんなに何個も何個も鉄砲があんの?」という妻からの突然の問いに、僕は答えることができなかった。
 「鉄砲」というのはモデルガン・ガスガン・ミニチュアガンのこと。一応目立たない所にしまってはおいたのだけど、しばしば出勤中に僕の部屋も「大掃除」をしてくれるので、実質ウチの中で「隠しもの」は不可能だとは知っていた。
 確かに銃が好きだ。ただし短銃ばかりで、ライフル等いわゆる「長物」には不思議と一切興味がない。しかも本来の働きである「撃つ」ということは殆どどうでもよく、ただただ精巧な「カタチ」の再現を求めている。だから本当は弾は出ないでいいから、よりディティールや質感に凝っていて欲しい。ミニチュアならなお良いが、銃のミニチュアというのは手がけている人が限られていて、数も少ないし大変高額になるのでそう手が出ない。
銃にかかわらず興味が湧いたものは、ちょっとの違いの比較や魅力の個性差に抗し難く、徹底的に集めまくってしまうという悪癖があるのは知人ならご存知の通り。興味を持ったが最後、数は増えるのだ。それより何より、そもそもなんで銃などに興味を持つのか? 問いかけのキモはそこだ。そして、僕にはそれに応じられる答えがなかった。
 本当に、どうして銃など集めているのか。男の幼児性。たぶんそれが一番正しい答えだ。それでもあえて、なぜ銃? と、考え込んでしまった。
 これは(本物の銃は)純粋に人を傷つけるためだけの道具だ。そんなものになぜ惹かれるか。心理学的には「それだからこそだよ」ということになるのだろう。そういう話は聞いたことがあるが、ちょっとそこは今は置いておいて、もう少し別な側面を考えてみる。ひとつ思うのは、武器・兵器というもののデザインは、純粋に必然性・利便性のみから生まれるはずだということ。生命を晒す場面にあって、意味なくただカッコいいというパーツなどないだろう。そういう無駄は全て淘汰されてきたはず。そういうものは、確かに美しいのだと思う。実用の道具は須らくそうあるはずだが、殊にこの「命のかかった」というシチュエーションが、更に磨きをかけ、極限まで洗練させていくのではないか。
 と、こんな無意味な思考をたらたらと書く気持になったのは、実は次の段階のことに思い至ったから。上記の云々などへ理屈に過ぎぬことは、重々承知のつもりである。