あしたのジョー 原作読破→「ジョー2」テレビ版・劇場版 (2)アニメ「ジョー2」

 原作→アニメ1→アニメ2、と、発表された順に「あしたのジョー」を体験した人の多くが、アニメ1に対してアニメ2を評価していないことが多い。「知性派を自任する奴に限って2をいいと言う」などという痛烈な言い方をされる方も、中にはおられるようだ。
 が、人間どうしたって先に体験したものの方に愛着が湧くし、ノスタルジーからも後発作品を批判的に捉えがちになる傾向はなかろうか。原作を基準に判断するのはもちろん正しいのだが、今回2を見直して、実はかなり大きいことに気づいた。決して2が低い評価を受けるべきものではない、とても大きな点に。
 前回、原作について「敗者の栄光」の物語である、と述べた。アニメ2は、実にこの点をものすごく大事に作られている。つまり原作の精神の大事な部分をくみ取った上で、そこをふくらませてオリジナリティ・独自の解釈を展開しているのだ。2では原作にないオリジナルストーリー、オリジナルの展開、オリジナルキャラクターが多い。それが何れも、原作の精神を尊重した上で、そこから独自の解釈を加えているものなのだ。これは、原作ものを違う媒体で作り直すときの理想的な手法ではなかろうか。僕はいつも原作ものの映像化は「違っている方が面白い」と言っているが、もちろん原作と違っていれば何でも面白いと評価するわけではない。ご都合主義的な改変や原作の精神を踏みにじるような「改悪」作品、もっと悪いのは原作の魅力を全然理解できてなくて違った方向に走ってしまうような改変。そんなのは駄作でしかない。「ジョー2」について言えば全くそういう低い次元ではなく、極めて高度な、実に原作への愛情に満ちた「新解釈」作品であったのだ、と今回気づいた。
 少年時代のホセと対戦して自信喪失した元プロボクサーの逸話。寸借詐欺を繰り返すかつてのライバル、ウルフ金串。ジョーは自分の青春の誇りと言う西。世界タイトルに挑戦する矢吹を失われた青春をひきずり続ける誇りと捉える、かつての少年院仲間たち。テンプルが打てなくなって苦しむジョーの前に整列し、「あっしたちのテンプルを打って下さい」と身構えた子どもたち。・・・・何れも原作にはないエピソードだが、涙が流れてきて仕方がなかった。本放送当時、自分はこんなに泣きながらは見なかったよなと思った。
 どのエピソードも、「敗者の栄光」という隠れたテーマ、下町の人たちの人情といった、「あしたのジョー」の大切な部分を理解しているからこそ生み出されたオリジナルな表現だと思う。
 更にもうひとつ大切な点を言うと、「2」の作り手は、ジョーを「放浪者」と捉えている節がある。それは何よりあの「真っ白に燃え尽きた」エンディングのショットに、旅を続けるジョーの姿を織り込んだところに伺える。第一回放送の描写、後期オープニングタイトルの映像、ホセ戦の最中に回想されるジョーの少年時代や紀子とのやりとり。それらが密かに伝えるのは、彼は永遠の旅人である、という解釈ではなかろうか。これは完全に作り手の独自な解釈であるが、ラストシーンでジョーは死んだのか? という、ファンにとって永遠の問い掛けに対するひとつの解答を、さりげない形で、しかし放送全編を使って表現しているのではないかと思うのだ。
 長くなったのでこの辺りで切り上げる(まだ次回に続くけど)が、とにかく簡単に切って捨てることのできないほど、「2」はレベルの高いアニメ化作品であるし、これを観たことによって原作の深いところにも思いを致すことができる部分さえあったのだ、と、今回気づいた。最後に添えるように言うが音楽も大好きで、担当の荒木一郎は、かつての歌手時代を知らない世代にとっても大きな仕事をした作品だな、とも思っている。