あしたのジョー 原作読破→「ジョー2」テレビ版・劇場版 (1)原作

 少しずつしか時間が取れなかったからものすごく長期にわたってしまったけれど、やっと原作を通読し、テレビ版「2」と劇場版「2」を全部観た。本当はテレビ版「1」もものすごく観たいのだけど手元にない! 誰か持っていたら貸してくれませんか?
 
 こうして久し振りに通観して気づいたことがいくつかあった。まず今日は原作について。
ひとつは、この作品がちばてつや梶原一騎(あ、高森朝雄か)という対極の個性のぶつかり合いによって出来上がった奇跡のような作品であるということは周知のことながら、それでもやっぱり細部に宿るちばてつやの持ち味が大きいのではないか、ということ。ドヤ街の人たち。子どもたち。そして中学生の頃ひそかに想いを寄せもした乾物屋の紀ちゃんも。そういう人たちが、この作品では大事なのだと、再読しながらずっと思っていた。
そもそも、これは「敗者の栄光」の物語なのだな、と思った。この言い方にはいろいろと語弊もあることは承知の上だけれど。段平、西、ウルフ、カーロス、そして丈自身も。ドヤの人たちや、少年院の仲間たちも、ある意味そう捉えていいのではないかとも思う。そういう人たちへの優しいまなざし。これがなんともちばてつや的だと感じてしまう。そして丈の、「勝ち負けではない」生き方、そのプライドに、感動するのだ。
 僕は原作がふたりの作家のどのような取り組みによって描かれていったのか、そのプロセスは全然知らない。でも梶原原作の(僕の知る範囲でだけど)どの作品とも、それらの細部から滲み出てくる何とも言えない風情が異色に感じられる。
そしてもちろん、描画がすごい。ちっちゃな絵に至るまで、その表情、手の仕草などの細部、構図に至るまで本当に隙がないと言うか、鬼気迫るものを感じずにいられない。こればかりは、ついにアニメの追随を許さなかったところ。15歳くらいのどうしようもない悪ガキが20歳前後の青年にいたるまでの成長、人間としてのふくらみ。そんなところまで、長期の連載にわたって描ききっていると感じる。ものすごく身を削るようにして描いたんだろうな。作者自身、もう同じテンションで描けないと感じているからだろうか、ちばてつやって、新作発表してないですよね? 健在のはずですけど。
またもう少し歳をくってから読み直すと、また違うところが見えて来るんだろうな。そういう稀有な劇画なのだと改めて痛感した。