映画『ソーシャル・ネットワーク』

 これは良かったですね! きっと年末に振り返っても思い出す作品になるでしょう。
 デビッド・フィンチャーは最初の二作(『エイリアン3』『セブン』)しか観ていません。『ファイト・クラブ』は激しく気になりながらも未見です。たったそれだけの範囲でですが、監督として結構信頼しています。
 本作ではよく言われる「尖鋭な映像感覚」というのは鳴りを潜めたかに見えますが、どうしてどうして。緻密な画作りがなされていたと思います。そもそもテクニックというのはそれ自体が突出すべきものではなく、作品総体の必然性に奉仕すべきものだということを熟知している作家なのだなと感じました。
 周辺的な話が先行しましたが。
 実在現役の人物を描いていますが、それが真実そのものかと言えばそれはちょっと眉つばかもしれません。でもその点は実は僕にはあまり重要ではありません。むしろ作家の創作であるということが大切だと思います。描かれた当の本人にとっては大問題ですけれど。
新たなものを生み出すときに、殊にそれが知的財産とでも言うべき代物であったとき、様々なヒントやきっかけがどこまで誰のものと言えるのか。などということも考えさせられますが、当然凡庸な者には見えているそれらのものを繋ぐことはできないのですから、やはりこれは異能なのでしょう。そうした「生み」の突出したセンスを溢れさせる者は、常識的なバランス感覚にエネルギーを費やす余裕はないと思います。この映画の通りかどうかはわかりませんが、まあイヤな奴には違いないのでしょう。それでも奥には彼なりの友情はちゃんとある。そういうところも描かれているのがまた好きなところです。
観ている間は双子を欺くくだりなど「うわ、悪いなあ」と思っていましたが、後にはそれが痛快にも思えて来ました。そりゃあんなエリート意識の塊に、へいこらつき従って利用される訳がない。復讐の対象ですよねむしろ。僕自身は平凡な人間なので、サヴェリンの(あくまで作中の)鈍さ俗っぽさに一番共感してしまいましたが。
しかし、世界を変えるような発明をし、それは世界中の人と人を繋ぐようなものでありながら、自分自身のこの孤独! いや、考えてみれば、(作中の)彼のようなコミュニケーション不全な人物なればこそ発明し得たものなのでしょうけれど。そしてこのコミュニケーション不全は、彼独りにとどまらぬ、今の我々の社会の抱えているものそのものの象徴にもなっているのかもしれません。
なにしろこまかなニュアンスについては解釈に迷うところも多く、もう一度は観ないといけない作品だと思っています。