「映画 < 小説」 か②

 とにかく、言うまでもなく映画は目に見えるという一点で文字しか持たない小説を遥かに凌駕する可能性を持っており、一方でその利点に安易に溺れる怖さも併せ持っている。
 少し極端に言うと、映画の作り手が「小説と同じように作ろう」と思った時点で負けは決まったようなものだ。まあ、実際には観客の(原作小説ファンの)多くが正に「原作小説と同じもの」を求めるという現実があるから、そこを外れて行くというのは大変リスキーであるという事情はは承知している。だからこそ制作サイドが「セールス」の一語しか求めていない企画であれば、自然と映画化作品は「小説と同じように」という方向にしか向かい得ないということになる。しかし、作り手の自然から生まれた企画であるなら、当然「オレならこうする」という必然があるはずで、そうして作られた映画化作品は、場合によっては原作とは似ても似つかないものに仕上がるだろうが、そこにこそ映像化の意味はあるのではないか。考えてみれば良い。小説を映画化して成功した作品って、何があったか? たとえば「惑星ソラリス」。「羅生門」。「2001年宇宙の旅」は映画と小説の関係が単純な「原作」と「映像化作品」とは言えないが、これぞ各々の表現の仕方の違いから別々に発展・完成して行った好例と見ることができよう。最近では(これは小説ではなく漫画が原作なのでかなりポイントが違ってくる部分もあるが)「デス・ノート」なんて見事ではなかったか? 何れも映画の作り手に明確なオリジナリティがあったからこそ、なのだろう。
 忘れがちだが007シリーズなど実は典型で、たまに原作に近づけようとした作品ほど「ジェームズ・ボンドらしからぬ」と言われてしまうほど、映画シリーズは原作から自立して「映画らしく」成長して行った。また漫画になるが「ルパン三世」シリーズや「ゲゲゲの鬼太郎」などは映像化作品に原作者の方が引っ張られた例に当たる。いまではルパンと言えば代表作とされる「ルパン三世カリオストロの城」など、原作はもちろんそれまでの映像化作品とも全然違う異色の作品だったのだ。それがこの作品以降みんな「カリオストロ」の焼き直しになってしまった。作ったのが宮崎駿であったれば、当然の結果ではあるが。更にかのハンニバルシリーズも原作者が映画シリーズに引っ張られた例と言える。映画化作品の全てが映画として完成度が高いとは言えないが、最新作「ハンニバル・ライジング」など明らかに映画に引き摺られて継続された新作だ。「羊たちの沈黙」はどちらかと言うと忠実に原作を映像化して成功した例に属するが、あれも映像としての表現の特性を最大限発揮された結果の名作だし、実は映画版のハンニバル・レクターは原作とはだいぶ雰囲気の違う人物になっているのだ。

 映画版「チーム・バチスタの栄光」が、映像的に光る脚色部分も持ちつつも原作小説に及ばない観があるのも、やはりおいしいところがぎっしり詰まった原作のアウトラインをなぞる作り方をしたからだろう。大変大きな変更点となる主人公を男から女に変えたことは、あくまでテレビ的発想「視聴率を稼ぎたい」の一点でしかなかったろうと邪推する。あまりプラスに働いたとは思えない。
 ただし。この「複雑な要素の詰まった原作のアウトラインをなぞる」という作り方をしてなお一級の映画になった作品もなくはない。「薔薇の名前」。まあ、熱狂的な原作ファンの評価は違うのかもしれないが。