追記 レクターとクラリスのシンパシー

人喰い

 (『ハンニバル・ライジング』の感想を補足して)
共に苛まれる悪夢を持つということが二人を結びつけた、と結論するのはいささか強弁に過ぎるというのは承知のことである。
 一応簡単な整理を。物語を時系列順に並べると以下の通り。(後の番号は原作執筆順。映画制作順の話も交えるとややこしくなるので割愛)
 『ハンニバル・ライジング』4 → 『レッド・ドラゴン』1 → 『羊たちの沈黙』2 → 『ハンニバル』3
 レクターとクラリスが出会うのが『羊たちの沈黙』。続編『ハンニバル』で、原作ではふたりが共に姿をくらまし、後一緒にいるのを目撃されている。映画ではクラリスがレクターを拒み、レクターのみ逃亡した。映画版のラストならばまだまだ続編は作れそうなニュアンスが残されていた。原作ではもうこれ以上は無理だが。原作者トマス・ハリスが「映画は映画、勝手にせよ」とでも言えば製作者は嬉々として続編を乱発するだろう。が、新作映画『ハンニバル・ライジング』で原作者が脚本まで買って出ている状況からそれは考えにくい。というのが現在の状況。ではシンパシーの話に。
 クラリスの悪夢をレクターが興味深く思いシンパシーを抱いたというのは、こちらは解りやすい。幼い頃深夜牧場で聞いた屠殺される子羊の悲鳴が、長じてもクラリスの悪夢として残っている。レクターは、彼女が追っている犯罪者を捕まえ、捉えられている少女を救い出せば子羊の声は聞こえなくなると思っているか、と問う。彼女はそう信じている。一方レクターは幼時に目の前で妹を喰い殺されたのが悪夢となった。やがて食人に向かい、自らもが妹の肉を食っていたと知らされるに至って常人の境界線を越えてしまう。彼はクラリスの悪夢を消そうとして、憎むべき彼女の上司クレンドラーの脳を料理として饗じようとする。原作ではクラリスがこれを受け入れるのだ。拒絶する映画版の判断の方がクラリスらしい、というのが映画を観ての感想だった。が、クラリスにもうひとつの問題があることは看過できない。亡き父への喪失感である。原作ではクラリスのその心の穴を埋める配慮がなされた上での饗応だった。映画『ハンニバル』ではこのクラリスの父親思慕の要素が完全に排されていたからこその、あの結末だった訳だ。原作では、自分を支えてくれた上司クロフォードに陽の父親像を、そしてレクター博士に陰の父親像を見出していたクラリスは、クロフォード亡き後このレクターの饗応によって完全に彼に父親的存在を重ねてしまった。そう見ないと、なかなか常識的な感覚ではクラリスからレクターへのシンパシーというのは突飛過ぎて理解できないだろう。ましてこの信念の強い人物が人肉を食うなどと。
 新作『ハンニバル・ライジング』で、レクター自身の悪夢と、彼にとって最後の精神的支柱であり愛の対象であったレディ・ムラサキの存在が描かれた。これによって、レクターがクラリスに妹の姿とムラサキの姿を二重に、更に自分自身の姿をもだぶらせて見ていたことが判った。かくして「衝撃的」な原作の結末に向って一本の筋が通ったのである。
 なんというマニアックな文章! 全作を原作・映画とも目通ししている人にしか、なんのこっちゃさっぱり解らんいや興味ない話を延々とよう書くわ・・・・。ええねん。自分で頭整理して納得するためだけに書いたんで。