映画『ハンニバル・ライジング』

若き日は男前

 映画の出来は、やはり思っていた通りの感じだった。脚本も原作者が手掛けているので、大きな相違はなかった。
 監督ピーター・ウェーバーは、完全に雇われ仕事なのだろうけれど、持ち味は充分に発揮したと思う。先日観たばかりのこの監督の前作『真珠の耳飾の少女』同様、極力言葉を削ぎ落とし、目で語らせ、画面で魅せる。それによって失うものもある・・・・多くのエピソードや、分かり易さ・・・・けれど、映画ならではの緊張感と演技の醍醐味は味わえる。シリーズ前作映画『レッド・ドラゴン』のブレット・ラトナー監督が、手堅く仕上げながら「ぬめっ」とした質感を欠いたのもまたある意味監督の持ち味なのだろう。
 そして、この映画を観てはじめて気づいた。原作を読んだ時点で気づかなかったのが何ともうかつだった。この一作で、シリーズに一本貫かれたものが生まれたのだ。レクターは『羊たちの沈黙』で、クラリスに自分と通じるものを見出していたのだ。件の、羊の悪夢だ。拭っても拭っても消え去ることのない悪夢の中の叫び声。それこそが彼女に惹かれた、とても大きな部分だったのだ(*この点に関しては話は単純ではなくそれはそれで書きたいことはあるが、ここでは話が迷走するので稿を改める)。それだからこそ、やはり『ハンニバル』の終末は、原作の通りレクターとクラリスふたりが結ばれるのでなくてはならなかったのだ。映画版の結末の方が当時はしっくり来たけれど、今ならそう思う。
 作者は『羊たちの沈黙』執筆時にこんな伏線は考えていなかっただろう。けれども後付けでも構わない。シリーズはこの一作で結ばれた。この一点で、僕は本作に意義を見出した。
 それにしても・・・・あの歌は・・・・。妹に起こった禍々しい出来事を思い起こさせるために度々口ずさまれる、妹が好きだったというあの童謡は・・・・。ヤマハ音楽教室のCMで使われている、「ドレミファソ、ラファミレ、ド」あの曲だった! 作者を恨む。もうあの愛らしいCMが流れる度、レクター氏を狂わせた惨事を想起せずにおられない身体になってしまったのだから・・・・。