言葉は肉体と不可分

10リットル入ります

 よく授業で「ことばの働き」という話をするときに、人間は言葉があるからものを考えることができるんだ、試しに一切言葉を使わず何かモノを考えてみるといい、という話をします。これは多面的なことばの働きの、重要な一側面ですよね。しかし、どうやら僕が思っている以上に、言葉というものは「理屈」や「道具」である以前に人間の生理そのものなのかもしれません。
 登山家の野口健さんがテレビで話していたのですが、ある登山の時酸素ボンベの酸素の量を計算間違いして頂上で酸欠を起こしたとき、無意識のうちに「酸素」「酸素」と連呼していたそうです。肉体が酸素を欲し、それが本人の意識とはかかわりなく言葉として出ていたわけです。
 バーのマスターというのはウイスキーの味を実に見事に言葉で表現されます。閉鎖した蒸留所グレンアギーのモルトを飲ませてもらった時、その実に複雑な後口に感激していたら、「なんか最後に栄養ドリンクみたいな匂いがふわーっとするでしょ」と言われた(こう聞くと安っぽい味に思えるかもしれませんが、これが実に素晴らしい!)。そう、確かにその通りなんです。そうやって言ってもらわなければ、僕が味音痴名だけというのもあるんですが、きっとこのモルトで一番特徴的なその個性を掴みそこねていたと思います。言葉にされて始めて明確になる味。
 五感を言葉に表すのか、言葉が五感として認識されるのか、こうなってくると判りません。判りませんが、言葉があるから人間はものを感じ、ものを考え、感動をすらできるのだというのは、判りました。


 あ、写真は本文と全く無関係。職場にある、なんと10リットルも入る巨大薬缶です。