気がついたことがある

二日に会った高杉は、同業者だけど学生の頃から作家になるのだと言っていた男だ。それは冗談などではなく、今でもそのための文章修行を怠っていない。実際、センスは僕では計りきれないくらいのものを持った人物だと思っている。
僕も以前は小説を書こうとしていて、それは決してプロを目指していた訳ではないけれど、素人としてはそこそこのものが書けるつもりでいた時期もある。高校時代の友達と同人誌をやって、高杉に誘われて大学でも数人で本作りをやろうとしたこともある。卒業後はN先生に誘われてやはり自費出版を始め、6年間毎年一本は作品を書いてきた。でもいろいろと思うところがあり、また仕事上でも転機が重なって、小説を書くことをやめてしまった。
僕が書くものというのは、結局下手な焼き直し、真似ごとでしかない。映画や小説で「いいな」と思うと自分でもそんなのが書いてみたくなって、それで書く。書いたって、文章のセンスもストーリーテリングのセンスも、斬新な視点も独創的なアイデアもあるわけではない。そんな下手っぴいがそれでも小説を書く理由は? 意義は? 「書きたい」そういう思いがあるから書く。それが唯一の理由であり意義であった、と思う。このへんのことは以前にも書いたと思います。
思うこと、伝えたいことがあるならそれをそのまま書けば良いのであって、無理に小説の形にしようとすることはない。そうして、今はこのようにブログで毎日思うことやあったことを書いて、幸いコメント下さる方がおられるから、とても充実している。これでいいのだと思う。小説や詩は、センスのある奴が書けばいいし、センスはなくても書きたい人が書けばそれはそれでまたいい。僕はそれを読ませてもらおう。
でも、このまえ高杉と話しているうちに、少しずつ見えてきたものがあった。「じゃお前はもう小説は書かんな」と言われた瞬間。「いや、また書きたいと思う時が来ると思う。」と言っていた。
きっとそんな時は来ると思う。今ではないけれど、きっと。↑のような考え方、意義がないとか理由がないとかいうのは、結局傲慢な考え方なのだ。意義がなきゃ書いてはいけないか? いやいや。下手だったら書いたらいけないか? いやいや。今まわりに才能のある奴がいるから、卑下してるんだろう。稚拙なものを恥じているんだろう。そういうのって、思い上がりだ。本当にデキる奴は、格下のものを見てバカにしたりしない。プロ野球選手は少年野球の子を見れば、自分が力になれることはしてやりたいと思いこそすれ、下手くそだなカッコ悪い、なんて思うものか。
国語の教員である以上、文章や文芸作品の鑑賞について指導をしなければいけない。であるならば、たくさん読んでたくさん書く事は必要条件である、と思う。こうして毎日作文はしているけれど(で、それはそれで思いを形にするという点でとても大切な作業をしているわけだけれど)、文章の力、読解の力を磨くためには、やっぱり苦心惨憺して文章と格闘しなくてはならない。才能がないならなおさらのことだ。下手な小説の真似事をしていた頃、出来の良し悪しなどはともかく、やはり文章とキリキリの対峙をしていた。あれが、やはり必要なのだと思う。
つい先日、ふっと「構想」のようなことを、ほんの一瞬だけれど頭の中でやっていたのだ。それはやはりただの真似事に過ぎないのだけれど。
今はまだやらない。でも、そのうち必ずまた書き始めるだろう。ハッキリとそう思い至った。ありがとう、高杉。