小説と若い世代

 部屋のキャプテン(学年主任)が所謂「電子書籍」に興味があるそうだ。数社から出ている、アレなんて言うんですかね、そういう電子書籍を読むための機械。あれはもう買い頃かなあ? というお話。機械科の先生で、新しいものにもすごく柔軟。今の職場で一番好きな先生かな。
 僕自身は紙の本でないと何故か読んだ気がしないし、物理的にそこに存在していないとどうも気に入らないので(この性癖のせいで要らぬモノが身の回りに溢れておる)、まああといろいろと他にも理由があってとにかく個人的にはまだそういうモノには興味がない。でも便利なのはよくわかるから、もう少し成熟してきたらいい生活ツールになるのではないかなと思う。またこういうものによって年配の方や若い世代の読書にプラスになるのなら、それはものすごくいいことだと思う。
 活字離れと言われながら、実は結構若い世代の図書購入量が上向いているらしい。また若い世代の「書き手」もどんどん台頭してきている。十代から二十代前半の人がどんどんいろんな文学賞をとって「作家」としてデビューしている。実質はプロの大人の手が入っているものもあるそうだが、一方で実はほとんど文学作品は読んだことはなく、「なんとなく」で初めて書いてみたものが受賞しちゃったよ、という方もいるそうだ。若い世代が文芸に関心を強くするのは、基本的には喜ばしいことだ。ものすごく。
 やはり携帯電話やコンピューターの普及が大きいのだろうな。メールや自作ホームページなどで、日常的に作文する機会がものすごく増えているというのは大きい。それも気軽に。小説を書くという作為に飛び込むのにハードルが低くなっているだろうし、文章表現なども洒脱に洗練されているだろう。そうしたことが要因として大きいのだろうな。ネット配信から飛躍的に読者を獲得する小説が大ヒットして映画化・テレビ化されている。情報もネットで拡大する。
 簡単に読める・簡単に書けるということが、日本の文芸に新しい局面を拓くのかもしれない。それがものすごく楽しみな一方で、「簡単に」というところにやはりひっかかりも覚えるのだ。
 人間の能力というのは因果なもので、肉体的なものでも精神的なものでも、楽をすることを覚えると確実に退化もする。楽に読める・楽に書けるということが読者層の裾野を広げるのは素晴らしいが、(裾野が広がれば、それはつまり選手層が厚くなることなので、才能のある者が見出される可能性も広がるわけだが、)それが良質なものを育む方向に進化しているのかどうか、僕にはまだ判断ができない。消費社会である。なんでもそうだが、とりあえず売れればよい。長持ちしなくてもよい。その方が商売になるもの。この発想が日常の道具のみならず芸術の分野にも確実に侵食してきているように感じる。何が「いいもの」なのかという判断基準はいろいろとあるだろうが、「長く残っていくもの」という基準もあるだろう。
 「売れればよい」という大人の戦略に乗っかってしまうと、一度ヒットすればもう用なしで、決して育ててはくれないだろう。そんな危惧がある。作者サイドだけでなく、読者の方もそういうことに慣らされてしまうと、次々目新しいものを求めるばかりになる。ファーストフードのような口当たりの良いものしか食べられなくなる。中堅の良質な作家、良質な才能も多いのに、そういう人たちの仕事が評価されなくなってきているのではなかろうか。
 本当にいいものが残る。それを信じるしかないが、学校にいて生徒の読解能力と対峙していると、つい今の若手作家ブームに手放しで喜びを感じられなくなってしまうのだ。国語の教員が、そんな他人事のような話をしている場合ではないのだが。