創作 そろそろ締めくくり

そうなのだ。創作とは、きわめて自然な営みであるべきなのだ(だんだんこの「創作」というご大層な単語を使うのがうざったくなってきているのだが)。「小説」というものに限定して始めた話だが、僕のこの毎日の日記にしたって、ひとさまからすれば「よう毎日こんなにゴタゴタ書けるなあ」、てなもんである。が、実にこれが僕にとっての自然なのだ。毎日これを書いておれば、とりあえず今の僕には「小説を書く」という自然はない。不要だ。
僕には、いま就いているこの職しかなかった。一瞬も他の職を思うたことがない。やりたいからやっている。それを許されている。そして、この仕事の魅力が、ほかでもない、僕にとって創造的な営みだと思えた、ということだった。子どもを創る、なんておこがましいことは言わない。僕自身にとって創造的な刺激に満ちているのだ。つまり、やつてて一番トクしているのは僕である。
気がついたが、この感覚、やってて一番オレが得。これがもの作りには大事なんじゃないかな。まあそれが単なる自己満足であるのか、オレの得=なにか社会的な意義、となっているかでは雲泥の差があるけれども。
ものを作る人を描いた作品は多い。それはもう、「トニオ・クレエゲル」の昔からゴマンとある。映画も然り。中でも好きなのが「ラウンド・ミッドナイト」。よほどジャズが好きでないと観られないんじゃないか、と言われたことがある。確かに、淡々とした展開だし、ジャズを演奏している場面がやたら多くて長い。けれど、ジャンルを問わずもの作りに携わっている人ならば、必ず何かを感じるはずだ。主人公デイル・ターナーの生き方。いや、彼の呼吸そのものが、創作する人の自然であり、自然であるが故の苦悩である。
彼は自然体でありながら、まごうことなきプロである。まあ、プロたる人とは元来そうしたものなのだろうけれども。そして、そのプロとしてのプライドを痛いくらい感じさせる瞬間がある。そこが感動的だ。プライドというのは勘違いしている人が多いが、これは自己の外に向けられて行く性質のものではない。プライドが許さない、とか、プライドを傷つけられた、とかいうセリフをよく耳にするけれども、対外的なプライドなどクソ喰らえである。人と比較してどうとか、恥をかかせられたとか、こんなことは恥ずかしくてできないとか・・・・アホかと思う。そんなプライドは要らない。プライドとは我が心の中にこそ高く高く持つべきものだ。心に恥ずべきことがなければ、何だってできる。そして、それこそがプロの矜持であろう。デイルは正しくそういう男であったと思う。
そして、ド素人ほど下らんプライドが高い。意義だの何だのを振りかざさないとものを作れない、とか。プライドのためにものを作るとか作らないとか。「われら芸術家」なんて言ってみたりして。それは、自然体とは対極にある姿勢だ。そうしていなければ生きていられない、哀れな姿なのかもしれない。そんな人には、きっと「するかしないか」、「できるかできないか」しかモノサシがないのだろうな。
とりあえず、僕は、今の環境がいい。恵まれている。そして、その環境はとてつもなく創造的だ。上を目指すは僕次第だ。自信持って行け。