なんか学校のセンセイみた〜い☆な、カタい話(長いヨ)

メールのやりとりをしているうちに、常日頃からうだうだと思っていたことを、ひとつまとめて書いておきたくなってきた。学校の話なんだが。
10年くらい前からだろうか、当市は「特色づくり」と称して専門科を多く設けて来た。英語科、とか、国語科、とか、武道科、とか。これは、私学や府立との差別化を計るのが目的だ。平たく言えば、何か「売り」がなければ生徒が集まらない、という発想だ。実際、市立の学校ではトップと言ってもせいぜい普通科であそこ、工業と商業であそことあそこ。偏差値で言ってしまえばたかが知れている。
そうした専門科設立の次に打って出たテが「単位制」だ。僕がいま勤務しているのもそうした中のひとつ、「総合学科」である。
この総合高校というところに勤めだして、強烈に思うようになったことがある。それは、「やっぱり公立の高校は普通科がいいな」ということだ。
「汎用性のある教科、英語だとか、国語も漢字や基本読解を徹底的に教え込むのが一番良いんだろう」という、やりとりしていたメールの中のこの言葉に強く共感するのだ。


講師時代も含め、いろんな専門科のある学校で仕事をさせてもらってきた。魅力的な授業もあって、そこで正直僕自身力をつけてきたという思いもある。刺激を受けた生徒もたくさんいる。いまでも交流が続いていて、他でもない、この日記を読みに来てくれたりもしている。
総合高校でもそういう面は多々あるのだ、勿論。
「生徒は何かやりたいことがあって、普通科ではなく総合学科に来ている」というのが学校側のスタンスだが、実態は「いや、フツーに勉強すんのダルいから」または「別に、中学校の先生が成績でココにしとけて言うた」という生徒が大部分。そういう子らを相手に、1年の秋には2、3年時の選択科目を決定させなければならないシステム。そのために1年時に用意されている「産業社会と人間」という科目はものすごくいいと思う。様々な刺激を与え、具体的に自分の将来像を模索させていく。しかしそれでも、大部分の子がラクをしたいがために「芸術コース」を選ぶ。ここであと2年学んだって、何になれる訳でもない。進学希望組だって、夏の希望者補習で古典文法をイロハから始めなきゃいけないような状態だ。今年3年生の進学受験用の授業を担当したが、勉強して力をつけよう! というような子は4〜5人。あとは「まちがって選んだ」、「もう進学せえへんからいい」。良くて「進学に要るからとっとけって言われたけど、こんなしんどいんイヤ」とのたまう。
ウチで一番のエリートは「食物コース」に進む。高校卒で調理師免許がとれますよ、というのが本校イチの売りなので、入学者の中で最も希望者が多く競争が激しいからだ。この子たちは、2年に上がるともうほぼ英語も国語も数学も勉強しない。芸術コース、スポーツコースも然り。一方で座学中心にとった子は、横で毎日テニスしたりCGしたり調理したりするのを見てると、カリカリ勉強するのが嫌になってくる(実際には毎日テニスやCGや調理ばかりしている訳ではない。その子らだって専門知識の座学はあるのだが、やはり「隣の花は赤い」らしい)。


高校生くらいまでは、もっと「普通」の枠組の中でそれこそ汎用性の高い基礎的な学習に専念できる環境を整えてやった方が、結果的にはよほど将来の可能性というのは広く開けていくと思うのだがなあ。
僕は中学生の時から国語の教員になりたかったから、高校では文系を選択、2年時には数学はオマケでしかなくなった。あの時は天にも昇る思いだった。
しかしいま痛烈に思うのは、「もっと数学やっときゃよかった」ということである。国語にだって論理的な思考が不可欠だ。ただでさえそういう思考回路が弱いのだから、柔軟なうちにもっと鍛えておくべきだったと、本当に繰り返し思う。
英・国・数の基礎を徹底的に身につけて、あとは応用する発想が備われば人間なんとでもなるだろう。だから、余裕のあるカリキュラムでスタンダード・基礎重視の枠組を作り、その中で教員個々が工夫をして行けばよいと思う。理科の教科書にペットボトルロケットの実験を入れるの入れないのという話をしているが、そんなものの影も教科書になかった時から、やってる先生はやっていた。
余裕がないから、テストとテストをつなぐ、その間になんとか範囲をこなすのに精一杯、というのは実感としてすごくある。国語だと「ここでちょっと考えさせて作文させたいナ」と思っても余裕がない。新しい学習指導要領の潮流に、僕はわりと好意的だ。
とにかくいま思うこと。公立の高校に必要なのは極端に特化したコースなどではなく、しっかりゆったり基礎を身につける環境と余裕と、そして教師の力量! 以上!
(* ただし。基礎、基礎と言ったって、生徒をナメていてはいけない。「こいつらアホやから難しいこと言うてもアカン。頭つかわんでもいい作業でもさせよう」・・・・そういう感覚にぶつかることが本当に多いが、断じてそれではいけない。レベルは下げてはいけない。考える力。これも僕の言う基礎のうちだ。と言うよりこれこそ僕の言う基礎力だ。知識は大事だが知識だけじゃ意味がない。それだけでいいなら「基礎」なんてケチなこと言わないでどんどん詰め込めばよい。知識は道具。道具は自分で使えて初めて意味がある。自分で考えて道具を使う力。想像力。これをこそ「基礎」と申し上げているつもりである。とりあえず国語教師は、どうやってレベルを下げることなく、上質な文章の読解・鑑賞・自己への応用をさせてあげられるようにするか。それは、教師の力量と見識にかかっているのだ。これ、自戒!)