ハードボイルドの原点(5) しつこく、あと一回

 追って、清水版『長いお別れ』も読んでいる。確かにこちらの方が、言葉遣いやリズムがハードボイルドという雰囲気を醸し出していると思う。でも、やはりどうしてもこれは明らかに翻訳の文章を感じてしまうのだ。村上版の方が逐語訳であって翻訳くさいという指摘もあるのだが、それでも僕には極めて「自然」に感じられる。ひっかからない。そこはやはり一流の小説家故なのか、アメリカ文化の知識ということも含めて作品を熟知しているから、なのか。これまでの翻訳もので感じた、どう説明すべきか・・・・テレビの洋画の吹き替え音声が、たとえ画面が見えていなくても一発でそれが吹き替えであると気づいてしまう、あの違和感に似ているのだが・・・・それが全く意識されずに読めたのだ。僕個人にとってこれは極めて大きなことだった。
 が、これは相当に僕の個人的な感覚の問題なのだろう。文芸評論家の池上冬樹氏の指摘は説得力がある。曰く、「清水訳は映画の字幕経験者ならではの“はしょり癖”があって、三つの形容詞を一つしか訳していなかったり、数行とばしたりするが、とにかく語感がいい。村上訳は一語一語のニュアンスまで丁寧に訳し、主人公のフィリップ・マーロウが、ハンフリー・ボガート的なハードボイルド探偵から、都市文学に出てくる冷静な観察者になった。かなり文学寄りの翻訳という印象を受けた」

 ハードボイルドなんて、今どき流行るまい、と思う。若い人には、殊に女性には、少しも興味をかきたてられることのない、古臭い世界であるかもしれない。それでも、いまだに一部おっさん連中にこの世界を愛して止まない人種がいて、日本でも細々とながら「ハードボイルド小説」の血を受け継ぐ良作は息絶えることなく描かれ続けている。僕にも間違いなくそういうものを嗜好する血が流れている、と思う。
 何がはやらないと言って、まずキザである。有名なせりふ、「強くなければ生きて行けない。優しくなければ生きていく資格がない」だって、実際にどこの誰がどんな顔をしてこんなせりふを吐くというのか、と思われても仕方がない。ハードボイルドとは、男がキザでいられた、ある意味古き佳き時代の遺物と言ってもいいかもしれない。
 しかし、チャンドラーの描くフィリップ・マーロウのキザというのは、押しつけるキザではなく、一歩退くキザとでも言うべきものだろう。そこにあるある種の「あきらめ」、その一方での「矜持」というか、「意地」というか、そういう部分に惹かれるのだと思う。そして、そこに成熟した大人の男を見出すのだが、その成熟というのは、現代の殊に男性の中から、失われつつあるものかも知れないという気がする。せめてフィクションの中にでも、そういう大人の世界が生き残っていてもいいのではないか。そう思いながらまた、ひととき古臭い世界に遊ぶのである。