消費促進剤としてのブランド その3

 いまの日本はおかしいとか、いまの若者はどうもヘンだとか、これはもうどの時代でも言われてきたことなのだろうけれど、現代の世相がおかしいところがあるとすれば、それは今がひたすら消費する社会だということだ。よく考えるまでもないけれど、そういうことがもうどうしようもないくらいのところにまで来ている環境破壊にも繋がっている。勤勉勤労を美徳とする時代は遥か遠く、いまや僕たちは働くのも勉強するのも「ほどほど」にして、とにかく日々消費に勤しんでいる。特に若い人にせっせと消費をしてもらう、これで社会は成立している。若者は消費するために頑張ってバイトをし、学校では夜や休日のバイトに備えてしっかり休養を取る。そしてバイトをして得たお金で携帯電話を使い、ゲームをし、ブランド品を購入する。テレビではさかんにセレブ(本来の「セレブリティ=有名人」という意味ではなく日本限定の「お金持ち」という意味)の豪邸や美食を紹介し、庶民は口を開いてそれを眺め、手の届く範囲でブランド品を揃えることに腐心する。この今の時代の「豊かさ」は、大袈裟でなく滅びにひた走るサイクルだと感じる。既に日本という国は金持ちでもなんでもなくなってしまっているのに、まだ気分だけはバブルを引き摺って外ではバラ撒き外交を強要され、内では人それぞれ「身の丈に合った」消費に煽られている。日本におけるブランド品の位置づけというのは、そういうことの象徴なのだと思う。どこからこうなったのかは僕なんかにはよくわからないけれど、これからどうなって行くのかはなんとなく知れるように思う。それは正直お世辞にも明るい気力と魅力に満ちた将来像ではない。
 話が大きくなっているように見えるからブランド品に振り子を戻してまとめるけれども、要は初回で書いたように、自分で生計を立てていない層(あるいは独立していてもまだ独身で社会負担が比較的軽い若者層)がブランド品に奔走するという図がおかしいのだ。なぜおかしいかと言うと、そういう世代の消費によってこの社会が支えられているからだ。労働や社会参加ではない。消費に支えられている、という点だ。ではどうして彼らがそういう消費ができるかというと、自分で生計を背負う必要がなく(あるいは責任や負担が圧倒的に軽く)勉強もそこそこでいいから、アルバイトをしてそのお金は全て自分の楽しみに使えるからだ。この国ではいとも簡単に誰もがアルバイトで小金を稼げるということになっているからだ。僕が学校の教員だからといって学校が全てに勝るものだなどと強弁するつもりはさらさらない。だが、就学期の子が本来その時期にしかできない勉強やクラブに打ち込まず、もっと言えば簡単に学校もやめてしまって、やめなくても将来に何のビジョンも持てずになんとなく押し出されて平気なのは、この「誰でもいつでも簡単にアルバイトができる」という環境の故だ。ほんの少し前であれば、結局どうしようもなくて学校くらいしか行くところがない、ということになっていた。でも今はいくらでもアルバイトができるから、学校でうっとおしい時間を過ごすよりもバイトしてちょっと大人の気分になってお金を貰い、それで好きなことがいくらでもできる。そのような構図を作って若年層を消費の中心に据え、一方で便利な使い捨ての労働力として機能しているのが今のこの国の構造であり、一番の「甘い餌」がブランド品であったり携帯電話であったりするということだ。
 だが実は、いざ未成年が成年になって家族を持ち家計を背負う段になると、仕事はキツくお金は好きなように使う余裕がないということになる。それでも「欲しいものは買う」というクセが抜けなければ借金を負ったり破産したりすることになるし、一方で仕事の方は辛抱したり集中したりする鍛錬が培われていないから、すぐ「自分に合わない」と辞めてしまうことになる。当座はフリーターで何とかなってしまうところがまた恐ろしい。
 もちろん「ちょっといいものを身につける」ということは、気持ちの豊かさにつながるものだ。それは、少しお金ができたら旅行に行く、だとか、おいしいものを飲み食いする、ということも同様だ。別に消費=悪と言っている訳ではない。でも繰り返しになるが高級なブランド品の購入の主戦力が若者という構図はどう考えてもいびつだ。後先考えずに暴走している社会の、ある意味犠牲者であることに気づいていないのがブランド品に血道をあげる若い世代だと言って言い過ぎではないと思う。初回で書いた「妙なことになっている」という感覚は、たぶんこういうところから来ているのだろう。