尾崎没15年

sa10kazu2007-04-25


 尾崎豊の信望者ではありません。むしろ熱狂的なファンを尻目にその作品世界にある種の甘ったれたにおいを感じて好きになれなかったものです。いわゆる「反抗」や「苦悩」とは無縁の作品は結構好きだったのですが。
 没後もそのカリスマ的人気の衰えることのなかった尾崎豊ですが、近年の若者には不人気、という文章を読みました。古いからダサい、という種類の不人気ではなく、かつては若者の代弁者とされた作品世界に対する反感が強まってきている、ということだそうです。若い人たちと常に接しているので、この感触はわかります。彼の怒りが理解できない、共感できないのですね。ひとに迷惑かけて。あほやな、と。大人や権力に対する若者特有だった反感というのは、それは顕著にナリを潜めています。むしろ無邪気に大人を信じ、素直で平和主義。みんな仲良しなのがいい。ただし、深入りはしない、されたくない。ここで言う仲良しは、言い方を変えればことなかれ主義です。心地よい仲良し幻想の中で無難平和に過ごすのがいいんです。教師に喰ってかかる生徒も本当に少なくなりました。あるとすれば自分のことしか考えてないただの我がままですね。我慢をしつけてもらってない。
 尾崎の世界に甘ったれた処もあったかもしれないが、それは苦悩と反骨精神と渾然一体となったものであり、若いゆえの、自我と闘うゆえのものだろうと今は思います。いい歳していつまでもそれじゃ大変だが、かと言ってそういう葛藤一切なしに何ものともぶつからず大人になってしまったら? と考えると怖くなります。学校では行事などでわざと対立や葛藤を経験していってもらいたいといろんなことをするのですが、生徒が憤慨して駆け込んできたり、物陰で泣いてたりする光景もめっきり減りました。いや、教員の見えてないところでいろいろとドラマがあることは承知していますが、減りましたねえ。
 一方で、尾崎豊のベスト版の売れ行きがよかったり、ミスチルや清木場さんが取り上げるのを聴いて新たなファンが増えていたりはするそうです。たぶん歌詞の精神とは無縁のところで心地よく聴いているのでしょうね。国語の授業をやっていて、「ことば」や「漢字」からどんどん「意味」が抜き去られ、「雰囲気」だけで使われていることを痛感しています。これは、モノを売るために「意味はわからなくてもいい、かっこよく感じてくれればいい」とばかりカタカナや外国文字の名付けを氾濫させる商業主義社会の責任が大きい。そう、ベタなことを言いますが、若者の傾向というのは須らく大人の責任です。無意味・無気力をよしとする世代を育てたのは、大人の何がいけななったのか・・・・。こういう世代の相を如実に反映させてしまう、尾崎豊はやはり大きな存在だったのでしょうね。