「海と毒薬」「悲しみの歌」遠藤周作

奥田瑛二と渡辺謙

 もう時効になってしまった事件だけれど、銃撃を受けたことで有名になってしまった某新聞社阪神支局、そのすぐ隣に、勝呂病院というお医者さんがある。駐輪場のすぐ目の前なので毎日見て通るのだけれど、その都度どうしたって思い出してしまうのが「海と毒薬」だった。
 戦争末期に実際に行われた米軍捕虜の生体解剖実験を材に取って書かれたのが「海と毒薬」。神なき風土に生き死にする我々日本人にとっての罪の意識とは、という作者永年のテーマを先鋭に描いた、「沈黙」と並び賞される名作については、今更僕が云々するまでもないと思う。映画化もされたが、大変良く出来ていたと思う。キャスティングも抜群だった。あの映画で奥田瑛二が演じていたのが、主人公の勝呂医師(研修生)だった。
 助かる見込みのない老婆に「初めての患者」と思いをかける良心溢れる若者ゆえ、誰もが死んでゆく戦禍と教授らの権力闘争に疲れ果て、運命にのみこまれるように解剖実験の場に臨んでしまう。
 その「海と毒薬」の20年後を描いたのが「悲しみの歌」だ。僕はそんな作品のあることを知らなかった。たまたま再版された文庫が平積みされているのを本屋で見つけ、「海と毒薬」もせっかくなので再読した上でこれを読んだ。
 30年も経ってから、ようやく描かれた続編である。当然、作品の狙いも変わってきている。今回勝呂の側に現れるのは、フランスから流れてきたヒッピーのガストン。彼は困っている人がいると黙っていられない。なんとかしてあげられないかと奔走する。彼は偽善者ではない。強いて言えば「同じ月を見ている」のドンちゃんに似ている。が、ドンちゃんと違い、ガストンは誰ひとり助けてあげることができない。勝呂が言う。人が人を助けるなんてできるのか? 助けてやるのもいいが、諦めるのも大事じゃないのか? と。この不思議な外国人は、現代に降り立ったキリストと位置づけられている。が、勝呂の心はガストンによって救われることはない。彼は、見るに見かねてたくさんの命を切り捨て続けてきた。末期ガンの老人に懇願されて安楽死させてやり、わけありの女たちの堕胎を請け負ってきた。ずっと、罪の意識に苛まれ続けながら。やがて彼の過去は、正義感を振りかざす若い新聞記者に暴露され、町中の人々に知られることになる。勝呂の「疲れていたんだ」という言葉は、人々にはふてぶてしい開き直りとしか受け入れられない。
 人は、悲しむために生まれ、生き続けていくものなのか? 人が人を裁くことなどできるのか? ・・・・前作とも繋がるテーマなのかもしれないが、前作の鋭い問いかけは影を潜め、今作では勝呂を取り巻く群像劇という形で、やりきれない思いばかりが静かに霧雨のように降りかかってくる。
 もしかすると、作者は前作で、自分の意図とは関係なく、この作中の新聞記者のような役回りを果たしてしまったのかもしれない。「海と毒薬」は事実に基づいているとはいえ完全なフィクションである。ジャーナリズムとして当事者を糾弾している訳ではない。が、そのように受け取られた向きも、あったかもしれない。物語を継ぐのに30年も要し、しかもその作風が全く変容しているのは、故なきことではあるまい。
 ジャーナリズムは責める視点、文学は共感する視点、などと僕も時々言うことがあるのだけれど。どちらも社会には必要な視点だとも思うのだけれど。人が人を裁くことなどできない。では、裁くのは何者か? −「神しかいないんじゃないか」作中の人物はそう漏らす。神とは、何なのだろう? 現代のキリスト、ガストンは、今日もただおろおろと泣きながら、街をさまよい続けている。