熱血教師禁止というギロン?

ねっけつ

(お断り:読んで不愉快になる方もあるかと思いますが、最初に申し上げておきますと、①僕は爆笑問題太田光という人はとても好きです。②番組を最後まで見ていないのに批判していることに対する批判は甘んじて受けるべきとこころえています。)
昨日テレビで「太田光の私が総理大臣になったら」という番組を見ていて、大変しんどくなって途中でチャンネルを変えてしまいました。
「熱血教師を禁止すべきである」という法案を提出して、賛成・反対に分かれて議論するというものですが、本気で討論する気があるとは思えませんでした。
まず、討論をする時は、論題を明確に定義づける必要がある。ところがここでは「熱血教師」というものの定義がなされないまま言い合いが続けられてしまったがために、全く噛み合わない不毛な「ののしり」に堕してしまっていました。太田光をはじめとする賛成派の方は皆自分がイメージする偏狭な「熱血教師」に対する反感をまくしたて続けることに終始していたように思います。要するに「自分の価値観を押し付けて『オレが人生を教えてやる!』と独りで空回りしている迷惑な教師」というイメージです。今時そんな教師ほとんどいないです。僕が最も不愉快に思ったのは、その論調一本槍で太田氏が義家氏を糾弾しはじめたくだりでした。義家氏といえば「ヤンキー先生」としてドラマのモデルにもなった人ですが、太田氏は果たして彼の公演を聞くか、彼の著作を読むかした上で彼を批判していたのでしょうか。言ってることを聞いていると、とてもそうは思えなかった。世間一般で流布するイメージだけを捕らえて、そこに自分の偏狭な「熱血教師像」を重ねているとしか思えなかった。そんなの、爆笑問題のコントやトークを一度も見たことなく、ただちらちらと目にしたイメージだけで「あいつらは下らん芸人だ」と言われるのと同じことだというのがわからないんだろうか。これが「しんどかった」理由の一点です。
二点目は、上記ゆえに反対派が言うことが全く通じていなかったこと。そう、僕自身はこの法案に反対です。
理由①。何でも「禁止」というのは安易に過ぎます。いろんな生徒がいるのだから、いろんな教員もいたほうがいいんです。たとえば賛成派が言うような「価値押し付け型熱血教師」がいたとしても、現にそういう先生に救われる生徒だって確実にいるわけです。生徒は自分で判断していて、熱血が嫌いなら別の教員をちゃんと見つけます。あるいは学校以外のところで様々なことを学んで行くかもしれません。それはそれで結構なこと。自分で判断しているのだから。その選択肢をなくしてしまって、いいことなんて全くないと思う。
理由②。僕自身はどちらかというと「熱血」は苦手なんですが。でも情熱なしに仕事はできないです。クールに突き放すというスタンスだって、実は相当なエネルギーが要るのです。賛成派の人は、みなさん自分の仕事に情熱を持って取り組んでいないのだろうか。情熱ワもって教員をしていれば、必ずどこかの部分で熱血にもなるし、生徒に「語る」部分だって出てくる。
そしてここからは理由の③ともだぶってくるのですが、賛成派が「熱血を禁止して教師は教科指導に専念せよ、人生教育は教師以外の、例えば年配者などにしてもらえ」という論旨が余りに現場を知らなさ過ぎると感じるのですね。基本的には僕も「教員は教科指導で勝負すべし」という考えです。だって、例えば僕であれば、「高等学校国語科教員免許」によって教員と認められている訳ですから。教科指導がちゃんと成されていれば、それがそのまま全人教育にもつながる、と信じています。なかなかその境地にまで到達できませんが。ただ、教科指導をしようと思えば当然「人の話を聞く姿勢」「自ら学ぼうとする姿勢」といったことにも指導範囲は及びます。家庭でそういう指導をちゃんとやれていない人に限って賛成派のようなことを仰る。また学校行事・クラス活動というものが社会の一員としての意識を学ぶ場となるでしょう。担任をするのであれば、生徒の進路相談、生活全般の悩みにも力になりたい。それをしなければ「アンタそれでも担任か」ということになりますしね、第一。学校という制度がある以上、教員が完全に教科指導のみに専念するというのは無理です。そしてそういう部分で親身になれば、自然それが「熱血」ということにもなって行くでしょう。
最初の話に戻りますが、「熱血教師」という言葉を明確に定義づけることなく議論をスタートさせ、ひたすら個人の持つ小さな範囲の「熱血教師像」をもってしてひたすら批判をしようとするからこういうことになるのです。見ていてはがゆいし、不愉快極まりないことになっていました。
僕は途中で観続けることを放棄してしまいましたが、後半では太田氏の恩師が登場したようです。そこで番組のトーンが変化したことは想像できます。が、少なくとも前半のトウロン。あれは不毛です。本来討論というのは、様々な立場の人間が意見をぶつけることによって「よりよい打開策」を見出して行こうとするものです。この番組のこの論題を企画した人は、それがわかっていなかったのか、そんなことはどうでもよかったのか。何れにせよ知的レベルの低い方だなと思いました。