頭の良さ

いいアタマ

と題して、大した話ではありません。
テレビを見ているとクイズ番組の国語関連の問題でもなかなか難しいのが出ています。特に時間を制限して素早く頭をめぐらす問題が多いような気がします。またCMでも、瞬時の判断を求める問題を出して反射神経を鍛えましょう、みたいなゲーム商品なども多数出ています。
とっさに判断する、考えをめぐらせて回答を出す、というのも、確かに「頭の良さ」のいち側面には違いないと思うのです。でも、なんか「それだけ」という風潮も肌で感じるのですね。
頭脳を鍛えるって、それだけなんだろうか。
いま一番必要とされているのは、特に若い人に必要だなと思うのは、むしろ、腰をすえてじっくりと考えること、ねばり強く考え続けること、ゆっくり秩序立てて物事の本質を見極めようとしたり、順序だてて思索したりする力じゃないのかな、と思うのです。そういうのが一番苦手なんじゃないかな、と。
学校の授業でさえねそういうことをさせる努力を放棄しつつあるように感じるのです。まあねえ、そういうことをさせようとすると、てきめん生徒は気を散らして遊び始めたり寝てしまったりするものねえ。でもそこで「この子らには無理」と痺れを切らしてしまってはいかんと思うのですよ。先述の「すばやく判断すること」が頭のいいことであり、そういう訓練をさえすればいいんだという風潮も、都合よく若者には取り込まれてしまいがちです。
いま「ゆとり教育」が見直されていて、いろんなことが「詰め込み教育」全盛時代に逆戻りされようとしていますが、本当の「ゆとり教育」に、学校現場も家庭もたどり着くことなく今の潮流になりつつある観があります。じゃ、本当の「ゆとり教育」って? これは難しい。でも先述したような、じっくりとものごとに取り組む、思いをめぐらす、ということは少なくとも必要だったのではないでしょうか。そのために必要なことはいっぱいあるけれど、まずは「言葉」というものを、そのなりたちからしっかりと捉え直すことが急務だったでしょうね。塾講師のカリスマ出口汪さんが書いておられたことがすごく頭に残っているのですが、「ゆとり教育」支持派も「反ゆとり教育」派も、学力を知識の量として考えている点で同じ土台で間違っていると説いておられました。つまり学習指導要領の範囲を増やすか減らすかという議論しかしてない。量だとか早さだとか、そういうことでしか、実はこの国の基礎教育は論じられてこなかった。じっくり考えるということは、むしろ「のろま」「ぐず」という見られ方をされがちで、学校でも重きを置かれてこなかった気がします。
考えることは言葉の知識と応用力なくして不可能ですから、やはりそうなると国語という科目は何にも増して責任重大なのでしょう。前々から手前味噌のように言い続けてきたことですが、英語よりITより、まず子どもに徹底して学ばせるべきは国語なのですよ。懐古趣味で言ってるのではないのです。
話がちょっと逸れてしまいましたが。
実は、僕自身がすばやく頭をめぐらすのが不得手だから、ムキになってこんなこと言ってるのかもしれませんがねえ・・・・。