創作

大黒正宗大吟醸!

創作って何なのか。
誰にも消費欲と創作欲はあると思う。創作といっても様々だ。幅広く解釈すれば、人間関係の構築だって「創造的作業」になる。ここでは具体的に「文章創作」。
マチュアの創作活動を、僕は全く否定するものではない。むしろその有用性は大いに感じている。授業でも、生徒に創作的課題をよく与える。そして他人にやらせる以上、自分でもやってみなければとても指導なんてできないと思っている。だから自分でも書く。・・・・ただし、こんな動機は明らかに「後付け」のもので、要はやりたいからやっているだけのことだ。そして、これは自分に限ってのことだけれど、何故書いているかといえば、そうすることによって胎に溜まっていることを吐き出すために他ならない。自己確認、というオマケがついてくるのがいいが、要は出来あがった「作品」は、垢や滓のようなものだ。あとは映画を観たり小説を読んだり歌を聴いたりして「いいな」と感動すると、それを我が手でマネたくなるのだ。「オレもこういうのやってみてぇ〜〜〜」というわけだ。
これらも、ちっとも悪いこととは思わぬ。何事につけ、しないよりはした方がいいのに決まっている。文章力、語彙力、分析力、構成力、観察力、粘り強さ・・・・いろんな副産物がついてくる。
勿論一般論として、感性や感受性の強い人が感じたことを創作作品として昇華したくなるのは、最も自然なエネルギーの発露だと思う。それに、「プロの小説家を目指すのだ」っていうのも当然「アリ」だ。そうなるべき人間が確実にいる。そうなるべき人間かどうかなんて易々とわかるもんじゃないけれど、本人がそれを目指すことは尊いことだと思う。まあ本人が自分の責任においてすることは何人の責めを負うものでもないと言ってしまうとミもフタもないが、ありていに言えばそういうことだ。その範囲で、やって悪いことなんてない。
では問題なのは何かというと、やりたくてやっているということに尤らしく「後付け」したテーマ性を、あたかもそれこそが肝要なこと、と嘯いたり、知らぬまに自分自身そのためにやっていると勘違いしてしまうことだ。
繰言になるが、ゴッコ遊びであれ本気であれ全然構わない。しないよりはした方がいい。することによって必ずなんらかの効果も成果もある。意義もある。しかし、自分がやっていることがどういうものであるかという自覚は必要だ。
ゴッコ遊びをしている人がそれをプロの仕事と同列に置いて語ってしまっては本気の人に失礼だし、またそれを他人に押しつけるのも失礼な話だろう。何事につけ、本気で取り組んでいる人は、それを他者に押しつけるようなことは絶対にしないと思う。
一番言いたい処が言えないのが何とも煮え切らないけれども。少なくとも「あえてやらない」というのも、ひとつの真摯な態度であるという考えだ。それは、間違いだろうか。これとて個人の判断。やっている人を揶揄する訳では断じてない。ただただ、「やらない」ことをそれ故責められるのは、チとつらい。つい、「じゃ創作って一体何なんだよ」と考えてしまった所以である。この文章がその解答になってはいないのだけど。