万年筆箱⑩「ペンクリニック」(03.10.5の文章)

広沢さんのペンクリニック

 ナガサワにパイロットの広沢さんという職人さんが来てペンクリニックが開かれた。
 先週は中屋万年筆(プラチナから独立して興された)の渡辺さんが金・土・日と来られていたが文化祭・結婚式参加で行けなかった。今週も土曜日に市立大会があったから、最終日の今日やっと来ることができた、という感じだ。
 広沢さんという職人さんはとても丁寧な方で、また理路整然と調整内容を解説して下さる。昨年はアウロラの「ダ・ヴィンチ」というペンを調整していただいた。これは縦書きに字を書く時には大変滑らかなのだが、たまに横書きで文章を書く時になんとなくひっかかりを感じていた。ペンポイントが縦長にできているからなのだろうと思う。その旨申し上げるとまず専用のルーペでつくづくとペン先を観察なさり、う〜ん、と唸られた。途端に僕は心配になった。プロの目から見ると僕の言っている要求はまるで見当違いなのではなかろうか? ・・・・と、これっぽっちも自信がないのだ。と、広沢さん「やってみましょう」とおもむろに調整作業にかかられる。目の細かな紙やすりで少しずつ削っては書き、削っては書き、やがてペンをこちらに差し出された。
 「あー、良くなりました!」もうひっかかりはない。
 「しかし参りましたね。この違いがわかるのは、ウチの工場の者でも数人でしょう・・・・」
 そんな事を言われると、こっちが冷や汗ものである。あの時も大変丁寧な手作業が印象的だった。ちっとも偉そうになさらないところも。
 今回は不具合なペンを持参した訳ではない。パイロットの85周年記念の「飛天」というペンを予約していたので、それを受け取りがてら、ちょうどいいので新品を調整していただいて使おう、という算段であった。
 この「飛天」という万年筆、奈良薬師寺東塔の水煙をモチーフにした蒔絵万年筆である。もともとは蒔絵万年筆なんて、と思っていたクチなのだが、過日東京にあるパイロット本社のペンステーションという処でとっくりと昔の名品の数々を眺めて以来、「これもいいもんだな」と思い始めていたのだ。だがそれでもやはり蒔絵万年筆は飛びぬけて高価であり、このペンの発売予告のパンフレットをナガサワでもらった時も買うつもりなんて全くなかったのだ。
 それが、全く違う探し物−大柄であってペン先は極細のもの、黒インクを使うのに合ったデザイン−を探している過程でたまたま、それもまだ発売前で店頭ディスプレイ用置いてあった「飛天」を書かせて頂いたときに、ぐぐっと心惹かれるものがあったのだ。パイロットはペン先細めに調整してあるので、供されたMペン先のそれがかなり細い線が書けて、これがなかなかスムーズである。それに軸がいい。フルハルターの森山さんもご自身のホームページで賞賛されることしきりであったのが頷ける。銀地に高蒔絵、その上に螺鈿が控えめにしつらえてあるので、色としては金色など派手な色目も使われてあるのに、大変上品だ。キリッとしている。モチーフとなった東塔水煙については随分以前に何かで随筆を読んだことがあるが大変美しい精妙な細工が施されているということだ。勿論それがこのペンにも引き継がれている訳だ。書き当たりがセーラーなどと比べると少々硬いが、細めに書くならこれ位でも程よいと感じられる。キャップの内側にフェルトが貼ってあり、尻軸に差しても軸を傷めないようになっている。随分芸が細やかである。これが、通常のパイロット蒔絵万年筆の価格ラインから比べるとかなり安く設定されていて(もちろん、他の蒔絵万年筆と比べたら、の話。やはり高価には違いないが)、「こりゃ買っとかにゃいかんかな」と、家に戻ってからどんどん思いが高まっていった。結局それで予約を入れた。試作品を書いただけで手にする現物を試し書きもしないで購入するのは珍しいことである。今日のこのパイロットのペンクリニックの日を待たずに予約完売したというから、この判断を正しかったと信じたい。
 長くなったが、それで今日のクリニックである。クリニックは11時スタートで、三宮に着いたのが10時半頃だったので少し早いかなと思いつつナガサワにやって来ると、もう既に始まっていて先客が二人座っていた。おひとりは客と広沢さんのやりとりを楽しそうに聞いておられる。もうおひとりが調整を受けておられるが、どうも根本的な破損で調整では如何ともしがたい様子。この方のペンは決して高価なものではなさそうだが、大変丁寧に使っておられるらしい。「ペン先をキズ付けたくないから、拭く時にティッシュも使わない」などと仰っている。また、「このインクが出にくいのをエイヤと馴らすのがええんや」などとも。「ひとそれぞれで面白いねえ」と広沢さん。
 僕の「飛天」は吉宗さんが出してきて下さる。「ちょっと書いてみられて、何かケチをつけて下さい、せっかくですから」と吉宗さん。試し書き用のインクをつけるのではなく、僕がこのペンで使うつもりにしているペリカンの黒インクを、わざわざ店の売り物を開栓してペンに入れて下さった。店先での試し書きはペンを直接インク壺につけて行う。これは実際よりもインクの出が良く滑らかに感じられるので、後になって「どうも違うな」と思うことが少なくない。そこを察しての計らいである。さすがにニクい、吉宗さん。
 好意に甘えて早速書いてみるが、良い。大変よい。前に試作品(と言うか、客には販売されることのない「シリアルナンバー0番」のペンなのだが)で書いた時より良い。
「文句をつけられませんね・・・・」と言うしかない。ただ、そもそもが細字のペンを探していたのだから、もうあとほんの気持ちだけ細めに仕上げていただければ言うことはない。
 広沢さん、恭しくペンを受け取りながら難しい表情。ここがこの方のいい処。適当にちゃ〜、とやってごまかさない。どんな注文に対しても真剣である。それで、どこが難しいかというと、このペン先はロジウムコーティングがしてある点が問題らしい。ペン先を細く仕上げること自体はたやすいそうだ。削ればいいのだから。ところがこいつはちょっとでも下手をすると、メッキの下の地金の金色が出てきてしまう。僕は、それは構わない、実用的な方が良いから、と申し上げたが、そこはプロの方が妥協できぬらしい。用心深い作業が始まった。調整と試し書きがしばし繰り返される。そして、「どうかこんなもんでご勘弁を。殆ど変わりませんが・・・・」とペンを返して下さった。書いてみると、なんのなんの、随分と違う! さすがにペリカンのEF(=極細)までは行かないが、メモ用ノートに字を入れるには充分な細さである。


 いくら試し書きをして買ってきても、使っているうちに不満が出てくるのが万年筆だ、ということを繰り返し述べている気がするが、そんな時このペンクリニックというのは実にありがたい。かなりの部分で我儘な要望を満たしてくれるからだ。
 またそういう実用的な面とは別に、やはりペンクリニックが楽しみなのは一流の職人さんと直接交流が持てるところだ。ペン職人に限ったことではないが、近頃すっかり気に入ってしまった「楽しみ」が、プロの方との交流だ。本当にご自身の扱っておられるものを愛していて、かつ自信を持っておられる方の話というのは実に楽しいし、カタい事を言うと勉強になる。全く職種・業種を越えて学ぶことばかりである。そば打ち松林のご主人然り、山本酒店のご主人然り。
 このナガサワでは年3回のペンクリニックがある。パイロットの広沢さん、中屋万年筆の渡辺さん、そしてセーラーの長原師親子。みなさんまた全然個性が違う。それがまたいい。行けばつい目の前に広げられた高価な特別品に目が眩むからフトコロ的にはかなわんのだが、それでもやめられないのがペンクリニックである。(勿論この文章の下原稿は飛天で書きました。しかも半分くらいは電車の中で。実にスムーズで気持ち良かった。)


* 過去書き溜めた万年筆にまつわる文章はこれまで。以後、リアルタイムでまた折々オタク談義をこの日記上で綴って行きたい。