続・浅田農産

たくさんのコメントありがとうございます。更に議論が広がると嬉しい。
前回のは自殺なさったことを知らないうちに書き始めた文章だったので、自殺そのものがテーマになってしまうと当初の主旨とはズレてしまいますが・・・・でもまあそのことから。
僕自身は理性としては「自殺はいけない」派ではあります。不健全にも死のうと思ったことが一度もない人間です。が。そんな僕でも、いつ不意に死の方向に足を踏み出してしまうかわからないと思います。人間そんなもんだと思う。だから、死を選んだ人を責めることにはどうしても抵抗があります。「逃げ」かもしれない。死んだって何も解決はしないし責任だってとれない。でも。本当に死んでしまうなんて、どれほどの苦悩であったろうと思います。
次にマスコミの姿勢について。
報道は正義になり得る力を持っている。けれどその刃はひとつ間違えると弱い者をこそ斬り捨てることによって自己完結してしまいます。「正義だ」と思ってやってることが、本当に正義なのか? この問いかけこそ報道に携わる者の良心であるべきです。実際、そうした良心に苛まれ、悩み苦しみながら現実の報道の世界で苦闘を続けている報道マンは多くいる、と信じたい。
以前「権威」について少し話したのを思い出します。報道に限らず、「力」を持った者の責任は重い。教師もそうです。医者もそうです。官憲はなおさらそうです。サトカンがやりだまに挙げられているが、ほとんどの政治家は似たようなもんでしょう。その一方でやはり必ず青雲の志をもって政治の世界に踏み込んだ人もいる筈で、その心境やるかたなからんことを慮って辛くもなります。
話が逸れましたが、しかし「正義」というのは怖い言葉です。大体、「正義」とか「愛」とか声高に言う輩は信用してはいけません。「おまえを愛してるからだよ」なんて言い寄る男ほど信用ならないものはないし、「これは正義のための闘いである」などと嘯く為政者ほど憎むべきものはない。「正義」の名のもとに人権を蹂躙して憚らないマスコミの姿勢は確かに腹立たしいこと限りないです。もしかすると、本気で「正義」を信じてジャーナリズムとコマーシャリズムの境界線を踏み外してしまっている志高き報道者も少なからず居るかもしれません。視聴率や購読量という商業主義と切り離せない以上これは消えることなき宿命です。ニーズがあるから売れる。ここは忘れてはいけません。バカな指導者を選んでしまう有権者が一番愚かであるのと同じです。では、打つべき手はないのか?
手が止まります。我々ができることと言えば、どんなことにもいろんな側面があること、いろんな立場の人がいることを意識していつづけることしかないのでしょう。そのためには、報道も(新聞などでも)いくつか目を通す必要があるのでしょうね。たったひとりのキャスターの意見だけで「あ、そうか」と信じてしまうのは悲しい。
ある人とのメールのやりとりの中で、自分で書いて自分で「なるほど」と納得してしまったことがあります。責める視点はジャーナリズムです。共感する視点は文学です。どちらも必要です。が、僕個人は共感する、寄り添っていく人でありたいと思います。今回のできごとでは、自然と浅田夫妻に寄り添っていたと思います。確かにやったことはものすごく悪いです。どれだけ多くの人に迷惑をかけ、その上で尚保身に走り続けたか。それを承知で、でも「わかるな」と思ってしまったのが前回の書き込みの端緒でありました。たまたまその書き込みの途中で自殺を知ったわけです。
しかし僕がただの「文学好き」であって「文学者」でないのは、そこでマスコミは責めていたという事実です。マスコミ者だって一方であまりに切ない現実に立ちすくんでいたのかもしれませんね。
ジャーナリズムの視点を悪く言っているのではありません。「責め」の視点がなければ世の中の真相真実は明かされないのですから。今回は僕のちょっとしたささやきから、いろんな人のいろんな視点が顕れて意見が交わされたということに、ものすごく感謝しています。
最後に。前回僕はこのできごとに対して「気の毒」という言葉を使いました。もうすこし胸に落ちる言葉がみつかった。「痛ましい」。あまりに痛ましいできごとが、僕らの地平には多くありすぎますね・・・・。