客観

 新聞のオピニオン欄である方(高校の先生)が論じておられたものを読んで、少し思うところがあった。
 入試問題の小説読解にマークシート方式はそぐわない、とのお考えには共感できる部分がある。が、挙げておられる理由には首肯しかねた。
 理数のように答えが一つになるもの、地歴公民の客観的事実を問うものと違い、小説での人物の心情や行動理由はひとつに絞れない、と論じられている。答えを一つに絞るためには結局出題者の意図を忖度せねばならず、かえって自由な創造力、感性を損なう、とも。
小説は読者の自由な読み取りに委ねられることが大切というのは、正にその通りだと考える。が、自由に読むためにはまず書いてある文章を正確に(客観的に)読み取ることが必要だ。正確に読むことをせず、「自由な読解」を錦の御旗に独善的な読みしかできなければ、却って読書の質を偏狭なものにしてしまうだけだ。だからこそ、学校では「客観的な読解」の力を養成するのであり、試験では客観的な根拠のもとに、つまり誰が読んでも「ここにこういう表現があるから(=証拠)こう読解できる」という点を問う訳だ。この客観的な根拠のない問いは悪問ということになろうが。
 この点は、小説だろうが評論だろうが一向変わるところはない。
 実は先日、授業でも議論になったところだ。生徒曰く「そんなん作者に聞いたんですか」と。極端な話、作者がどう思って書いたかさえ関係ない。本能的な作家の作品ほどそうだ。が、それを言うとややこしくなるので置いておく。ただ、我々は、文章の一語一語を大切にし、「こう書いてあるからこう読み取れる」という訓練を徹底的にするだけだ。国語が得意な生徒ほど「なんとなく」読解し、「なんとなく」答えを導き出す。だがそれはあくまでその読者の主観である恐れもある。そうではなく、「どう書いてあるか」に従って読み取らなければならない。それができた上で、「では私はそれをどう感じるか」だ。
 「君の答えは出題者の主観に沿っていないから間違いなんだよ」というような指導だけは、あるべきではないと考えるのだが。