仕事の核心の部分では(また長文)

 ある日の、バー・オークス・ドラムのマスターのお話。
 お店の営業が終わった後、お客として来られた同業の方とカクテル大会になり、白熱してしまった、とのこと。
 また別の日の、バー・ターロギー。その日の日中にカクテルの大会があり、さかきばらさんが審査に当たられたとのこと。後から選手の方が来店され、今度は主客逆転、さかきばらさんが腕をふるわなくてはならなくなった。プレッシャーだと仰りながら、自信の一杯を供された。
 一人の客としての妄想をするなら、目の前で複数のバーテンダーさんが同じカクテルを競作してくれたらどれだけ興奮するだろうかと思う。もちろん優劣を決めるのではなく、違いを楽しむのだ。でも実際にはありえないシチュエーション。何かのイベントでバーテンダーさんたちが並ぶことはあっても、作るお酒は役割分担して違うものをつくられるだろう。ただ、芯のところでは、プロ同志真髄の部分で対峙することは望むところではないのだろうか。
 それはどんな職業でも同様で。
 過日同僚が身内にご不幸があり、急遽お休みになった。代打として授業に入ることになった。
 3年生の現代文問題演習で二時間連続。ひとコマ目に僕が、次のひとコマにまた他の先生が入ることに。やることはシンプル、テキストの問題を解かせ、その後解答・解説をする。でもこれって、生徒から見ると三種「手法比べ」になるではないか。
 ひとさまの不幸に付け込んで不謹慎極まりないが、ちょっと燃えてしまいましたね、これには。ほとんど馴染みのない生徒に相対するアウェーの中で、三人の教員の中で自分のが一番「わかりやすい」「役に立った」と思わせたいではないか。
 問題演習はシンプルと言ったが、たた答え合わせをすればいいというものではない。と痛感したのは実はそんなに昔ではない。例題を一例として、現代文の問題はこうやって取り組むんだ、という根本を示さないといけない。本文の読解自体から勝負になる。
 さて。やることはやったが「答え」は知れない。その後わざわざ接点のない生徒たちに「どうだった?」と訊きに行くわけでもなし。ただ、その時お休みになった先生が、一度僕の授業を見学に来られた。授業公開週間だったので珍しいことではない。でも、まあそれが返答といえば返答かな、と思っている。
 仕事の核心の部分では、誰しも大人げなく力んでしまうもんではないですか?