言語化する力(長文)

 今年度はいろいろな講習を受ける機会があって、それは子どもの発達段階の問題だったり、心理学だったり、国語に関する専門的な話だったり、保護者対応についてだったり、生活指導についてだったり・・・・それこそ多岐にわたった。
 それぞれに課題があり着眼点があった訳だが、それらの多くに共通するキーワードとして「言語化する力」というものがあった。これは、日々生徒と接していて感じていることにも通じたし、僕が国語科教員であるから尚のこと、強く心にひっかかったのだろう。
 間違いなく、若い人の言語化する力は落ちている傾向にある(もちろん個人差は大変大きいです)。ごく限られたフレーズの中にあらゆるものを詰め込んでしまう。言語化することが限りなく難しい想いや状況も、本来ならできる限りコトバと格闘して表現・分析される努力がなされるべきところ、どんどんそういうことが忌避されていく。
 発達段階の中でそういう力を獲得して行くべき時期があるのだが、様々な現代社会的問題(経済的苦境から親が子の側に居られない。ごく小さい頃からの「遊び」の質の変化。携帯端末の発達に伴うコミュニケーション経験の貧弱化。その他・・・・)もあって、そういう力をつけるタイミングを逸したまま大きくなってしまう、ということがある。
 高度にバーチャル化が進んだゲームだったり、インターネットやケータイの多用だったり、何れもいっちょまえの大人になってからなら何の問題もなく享受すればいいのだけれど。
 携帯端末の発達は、ある意味ケータイ小説などの文芸作品を身近にもしたし、何よりすべての人が今や日々何らかの「書き手」であるという状況も生んだ。だが、そうして読むのも書くのも、とにかくシンプル化していく。必ずしも語彙の獲得や、思考力の鍛錬には結びつかない。
 そうなると、やはり国語科教員の出番ということになる。
 本を読ませる。新聞を読ませる。そのためにはどんな仕掛けをしていくべきか? また、文章を書かせる。どんなお題がいいか? 
 もうひとつ、大切な役割があることを学んだ。それは、「言語化してみせる」ということだ。相手が持っている、未分化の、もやもやとした、しかし切実に抱えている種々の感情や考えのタネ。それらを、根気強く言語化する手伝いをする。例示する。そこに「気付き」が生じる。昇華するものもあるかもしれない。大きく力を伸ばす者もいるだろう。もちろん、学力も。
 課題は極めて多い。わくわくしてくる。あとは時間が欲しい。自身がじっくりと思考する、そして様々試みる時間。じっくり、粘り強く生徒とつき合い共にする時間。時間は自分で作るものだけど、一方で物理的な問題も多々ある。やっぱり学びの場には「ゆとりむは必要ですよ。大切なのはゆとりの「質」であって、昨今のやたらゆとりを目の敵にする世論は、だから僕は好きではありません。