「ドリアン・グレイの肖像」オスカー・ワイルド

 大昔に読んだつもりでいたけれど、どうやら「読んだ気になってただけ」らしい。趣向は有名ですもんね。絶世の美少年がいつまでも歳を取らない。だが彼には秘密があった。それは、彼ではなく彼を描いた肖像画が年老いて行っていたのだという・・・・。
 少年の頃深夜テレビで映像化作品を中途半端に観た記憶が鮮明なのが、「読んだ気」にさせていたのかもしれない。この映像作品は、時代を現代に置き換え、主人公を女性に置き換え、と、かなり脚色されていた。「美の崩壊」のショッキングさは、確かに女性に置き換えた方が映像的にはインパクトが強かったかもしれない。でも原作を読んだ今にして思えば、原作の大事な要素がこれでは随分と抜け落ちてしまっていたのだろうな。僕が見たこの作品以外にも、有名な小説だけにこれまでに何度も映画化、舞台化されている。視覚化したい衝動に駆られる素材だけれど、ドリアン・グレイの美貌と醜く変貌して行く肖像画は読む人の数だけイメージがあり、意外と見る人を納得させるのは難しいかもしれない。
 ドリアン・グレイの肖像画の秘密は、絵が本人の身代わりに「年老いて行く」だけではない。無垢な青年が彼を描いた画家バジルの友人ヘンリー卿にそそのかされて堕落して行くに従って「俗悪に歪んで行く」のも重要な点だ。「外見が全てであり美に勝るものはない」というならば、若さもさることながらいつまでも純粋に穢れない相貌のドリアンの真実の顔が醜く卑俗に歪んでいるのだから、自分には全く価値がないのではないか・・・・という絶望。遅ればせながら善行によって絵の顔を少しでも直そうするものの、表情はますます卑しく狡猾になっていく。これは恐ろしいことだ。誰しも一度は若いままでいられたらなどと思うこともあろうが、代償は余りに大きい。
 しかし本作の登場人物で白眉はヘンリー卿だ。ドリアンは美貌こそ突出しているが人物は凡庸。まあそこが読者を身につまされる思いにもするのだが。快楽主義のヘンリー卿による数々の「警句」は、作家自身の美意識を多大に反映させている。本当の芸術作品を生み出す者は実人物は退屈なものだ、と言われる画家バジルと対を成す。美の象徴・絵に悪魔の命を吹き込んでしまった者・無垢な青年を堕す者。三者を描き分けたところが巧みだろう。ただ、ヘンリー卿の魅力にはあやういところがあって、これは翻訳のせいだろうか、時にただ無責任にでたらめ言って人をケムに撒いて調子に乗ってるだけの軽薄な奴に見えてしまうことがある。自分は安全なところにいて、ドリアンを本当に理解することもなくしたり顔で喋りまくる様は、ある面ネット上で薀蓄垂れ流す現代人に通じるところも感じる、というのは僕の偏狭な見方だろうか。