偶然

 持って来ていた文庫本を読むのに集中していたのだ。座っている目の前に乗って来た女性が立ったときにその顔に目を遣ったつもりだったのだけれど、全く気がつかなかった。本を閉じたら名を呼ばれた。女性は懐かしい、ミリだった。僕はもう電車を降りるところだった。ほんの数十秒の会話。今は横浜に住んでいて、こっちに戻ってきたばかりなのだと言う。帰ってきたばかりの彼女がその電車のその車両に乗ったのも偶然なら、仕事とはいえ普段行くことのないところから戻ってその電車に僕が乗っていたのも偶然のことだ。
 彼女はもともと綺麗な顔立ちだったが大人らしい美人になっていた。僕はすっかり太った。太っただろうと言うと、太った方がいいと言ってくれた。そんなことを初めて言われた。
 やっぱりちょっと動揺していたのだろう。電車を降りてからホームを出る改札を間違えて、乗り継ぐのにえらく遠回りをしてしまった。