思い出の曲(気がつけばとてつもない長文)

 テレビ番組見てて思いついたのですけどね。誰にでもあるだろう、思い出の一曲とそれにまつわるエピソード。いろんな人のそういう話聞いてみたいなあ。バトンじゃありませんが、これ読まれて何か思い出す曲とエピソードがあればご自身のブログでもコメントでも、紹介して頂けると嬉しいです。
 過日はコルトレーンの話を書きましたけれど、僕のような仕事をしてますと、「このクラスの思い出の曲」とか「この学年の思い出の曲」なんてのが結構いっぱいあります。たとえば映画アラジンの「ホール・ニュー・ワールド」やスピッツの「空も飛べるはず」ならあの学年・クラスの思い出。近いところではコブクロ「桜」も卒業にまつわる思い出の曲。

 昔中島みゆきばっかり聴いていた「ネクラ」な子だったことを隠しません。中島みゆきを知ったのはちょっと大人ぶってラジオでも聴いてみようかと思い始めていた中学生の頃で、何かの番組の特集で中島みゆきの人気曲ランキングをやってるのを耳にしてです。その頃の上位といえば「悪女」「わかれうた」「時代」「ひとり上手」「誘惑」・・・・。そういう有名曲ではないのですが、「夜曲」という曲が僕は好きでした。
 中島みゆきの曲をいくつか知りはじめた頃、彼女がオールナイト・ニッポンのDJをやっていることを知り、早寝早起きの親の目を盗んで月曜深夜の放送を聴くようになりました。最初に聴いた時はびっくりした! あの「ネクラ」の代名詞のようなシンガーソングライターが、「ぎゃはは」と馬鹿な大声あげて笑いころげていたのですから。散々馬鹿じみたトークを連打した末、最後の葉書を読む声は、しかしいつものイメージ通りの中島みゆきになっていました。そして一番最後に流す曲は自身の曲なのです。それが、「夜曲」でした。
 街に流れる唄を聞いたら 気づいて
 わたしの声に気づいて       ・・・・
 静かに、優しげにあたたかく、でも抑え難い悲しみをたたえた歌声でした。
 高校に入ると本格的に聴きはじめました。レンタルレコードや塾の友人を頼りに過去のアルバムをカセットテープに収め、繰り返し繰り返し聴きました。高校は私学の男子校。外で友だちを作れるバイタリティもなく恋愛とは無縁の日々。そんなある日、中学校時代密かに思いを寄せていた女の子とバッタリ再会し、以後頻繁に会うようになりました。いかにも「ひょろっ」としていた当時の僕とは正反対の、ハンドボールでオリンピックの強化選手になるような活発な女の子でした。実際、後にはハンドボールの腕を買われて実業団のチームのある企業に引き抜かれたくらいでした。中学の時は生徒会長をしていた。ひたすら目立たなかった僕とは、本当に正反対のキャラクターでした。
 それでも二人は気が合いました。中学生当時から、クラスで問題が起きて困った時にはわざわざ口数の少ない僕に相談を持ちかけて来ました。ボクシング漫画の「あしたのジョー」が大好きで、模写が得意だった僕にしょっちゅう絵の「注文」をして来ました。だから高校生になって再会してからも、彼女はよく僕に相談を持ちかけて来るようになった。よく彼女の家にも行き、豪快なおかあさんや活発さ瓜二つの妹とも仲良くなりました。もともと好きだった子ですから、気持ちが再燃するのは時間の問題でした。
 そんな明るさのかたまりみたいな彼女が中島みゆきを聴くとは思ってもいませんでした。何かの話の流れで「え、班長(これが中学当時からの僕のあだな)も「夜曲」好きなん?」と言った、この言葉は嬉しかった! そうして、彼女が自分で詩も書いていることも知りました。
 いつしか、繰り返し聴く「夜曲」の歌詞は、自分の気持ちを代弁している世界に変わっていました。男が女歌に自分を重ねるのは気持ち悪い、とは当時から思っていましたけれど、あまりに気持ちと重なる詞だったのです。中島みゆきには、この曲に限らずそう思えるものがたくさんあったのですけれど。
 この時からですね。僕の「当たって砕ける」人生の始まりは。そう、とうとう気持ちを伝えましたが当然答えはNOです。彼女も困ったでしょう。僕は恋愛の対象ではなく、「大事な友だち」だったのですから。ひとつの塔の頂点にいるひとが、違う塔の頂点に来たいと言われると私は困ってしまう、確かそんなような言葉で彼女は説明してくれたと思います。結局それからも長くよき友人同士であり続け、彼女が結婚で名古屋に移るまで頻繁な交流が続いたわけですが、今でも「夜曲」は彼女と分かち難い、それこそ僕にとってのひとつの時代の気分を象徴する歌になっているのです。中島みゆきの歌ならもっと先鋭な詞のものが他にいくらもありますけれど、そういうこととは離れて、この曲のメロディと歌声は僕にとって格別なものです。
(歌詞 http://www.kasi-time.com/item-18212.html