映画「デスノート the last name」

the last name は?

 (ネタばらししています。重大な点について触れないと、なにも書けません。)
 待っていました後編。映画前編を観てからいっきに原作を読み、この後編に備えてきた。
 よくあの長い原作をうまくまとめたなあ、とまず思う。前編の時点で全体の1/4くらいまでしか進んでいなかった。とても後編1本で残り全部を映像化はできない。これはLが死ぬところまでかな、と予測していた。実際そうだったのだけど、実にうまくその後の展開の要素も組み込んで、結果的にはちゃんと結末まで持って行っている。その結果Lの死そのものが原作を知るものをもミスリードしていく見事なトリックになった(細かく考えるとそれによって幾つも矛盾が生じてしまった気もするが)。
 いくつもの巧妙な原作の改変によって、監督は自身が原作に接したときに抱いたテーマを盛り込むことに成功したのではないか。インタビューなどでも語られているように、それは父親としての立場だ。
 妻なども原作一巻を読んで言っていたが、「死のノート」という道具立ては極めて毒が強く、「こんな漫画が、また青少年の犯罪やいじめを助長するのではないのか」という非難につながるようだ。僕のクラスでも先日あのノートそっくりのノートが教卓に置いてあってびっくりした。中身は普通の学習帳だったが、あるクラスでは本当に中にいろいろと架空の死因まで書き込んだ「デスノート」を作って遊んでいる子がいると聞いた。もしも遊びが遊びの範疇を飛び出していじめの要素を持ち始めたら大変で、それこそ我々の仕事になるが、それによってあの作品を断罪するのは早計だ。作品に込められた真のメッセージを読み取らなければならない。特に映画版では。それが、父親が子どもに対するメッセージ、だ。映画では主人公月(ライト)の父親、総一郎の存在がとても大きくなっている。最後で彼が月に投げかける言葉が、ほかでもない、監督が言いたいことだろう。曰く、「お前はひとりよがりだ、ひとりよがりな考えが正義のはずがない」「犠牲を伴う正義とは、何なのだ」と。ここで連想するのは「セブン」という映画だ。あの作品の犯罪者は、腐敗した現代に失望し、異常な連続犯罪を起こす。勿論その犯罪は許されるものではないが、犯人の失望には、老刑事は共感してしまうのだ。本作でも、月のいう「もう法では裁けないこの世の腐敗」というのは、誰にもよく解るのだ。だが、だからといって人が人を裁いていいのか?(ああ、またこの問題だ。)その裁きのための犠牲というものが果たして正当なのか? となれば、答えは否、だ。そこらはいろいろと議論ができそうだが、少なくとも映画の出した解答は明白だ。そういう意味では、今一番これを観て欲しいのは、プレジデント・ブッシュ、かな。