役割り

 高校での履修漏れが話題になってます。最初にニュースになった時は、まさか本当に誰も気が付かなかったとしたら、本気でバカやな、などと思っていたのですが、やはりそんな訳はなく、進学校ならどこでもやってるいわゆる「読み替え」というやつでした。
 前任校でもやってましたよ。ただ必履修科目を履修させない、ということまではしてなかったです当然。ネット上だしここは強調しとかないとね。総合学習が導入されるという時も、実際には進学補習的なことをやって「読み替え」たらいいじゃないか、という意見が大勢でしたね。文部科学省からの指導でそれもできないと判り、じゃあ何をやったらいいんだと途方に暮れてましたが。今の職場では総合学習導入以前から「課題研究」という授業があったからよそほど苦心惨憺することもなかったです。
 進学校または進学希望校では、この「読み替え」というのは意識としては「当たり前」のことだったんだろうと思います。重篤なルール違反を犯しているという意識はなかったのではないかと。受験に必要なものから優先させていくというのは、選択科目の範囲では当然の発想ではあります。ただやはり指導要領で決められていることを無視するということの重みは、もっと自覚があって然るべきだったでしょう。ということはどちらを見てもよく言われていることです。
 前任校や講師時代にいたある高校で感じたことは、教員の「これさえやってればいい」という意識が確実に生徒に都合のいい逃げの感覚を沁み込ませるということでした。自分の受験科目にない授業では平気で内職をする。余談をするなら言ってくれ、その間は別の勉強してるからと平然と言う。進路が決定すれば途端に授業を聞かなくなる。こういうのは、全部教員の受験至上主義的感覚が生徒に感染したものです。僕に言わせれば、やるべきことをちゃんとやった上での受験勉強です。出来の悪いやつほど中途半端な合理主義を都合よく振りかざし、無駄なことをやってる奴はバカだと嘯く。人を馬鹿にし教科を差別し要る勉強要らぬ勉強を狭い見識で判断して切捨て、その果てに学ぶもの、勝ち取るものがそんなに大事か。逆の言い方をすれば、そうまでしないと勝ち取れない大学合格であれば、それはもともとその人の身に合わぬレベルなのだ。ひとことで言えば、ただ「せこい」。トップクラスの受験を知らぬ三流教師のたわごとだと仰る向きもあるかもしれぬが、結局それで学ぶものって何なのだ、と言いたい。あほくさい。学校がそういうせこい人格をせっせと育むのか。
 世界史が必修で日本史が選択。こう決まった時は正直「なんで?」と思いましたよ。それが国際化だ、なんて、アホの言うことやん、と。だからここは当然この状況を期に議論し直すべき処だとは思います。受験との軋轢があると言うなら、中高教育と大学教育・受験とをもっと整合性のあるものにして行くべく、大学も含めた見直しの議論が必至です。が、それはそれとして、せこい抜け道をくぐる術ばかり学校が指導するというおぞましい公教育の感覚は是非とも考え直していかなきゃいけないだろう、と、つくづく思うのですが。