おいおい

こんな感じだったのかな

試験の採点がやっと片付き、ようやく試験明けの授業の準備に手がまわりだした、という体たらくです。
思い切って、次はいきなり「羅生門」に入ってやろうかと思うのですが。ええ、ええ。芥川龍之介の、あれね。
今年度は担任をしている一年生の授業ばかりです。久々の国語総合。で、昨年度これの担当者だった先生に年間計画をお訊ねしたところ、「羅生門」はやらなかった、と仰ってたのです。生徒たちの余りの「自己中」ぶりに、この作品を都合よく解釈されたらアカン、と判断されたそうです。担任もしている教員としての、ある意味良心的判断なのかな、と。まあいい。ひとはひと、僕はやろう。
と思いつつ、何度も授業で取り上げたことのあるこの教材に、目新しい切り口はないものかと、教科書会社が出している教員用の指導書に目を通していました。そこでちょっと愕然。作品の主題についての指導指針にこのように書いてある。
(多様な解釈が可能なところがこの作品の魅力、とした上でですが)
「やはり『悪』だと考える生徒もいると思われるが、老婆自身の生の原理をもう一度考えさせて、それに従ったものとして、下人の行為を許容する見方まで導きたい。」
「下人の老婆に対する行為が『悪』であっても、結局はそれを認め合わなければならないのが、むしろ人間の世界であり、自分たちの周囲にもそうした例があることを確認させる。」
「どんなにささいな『悪』でも、それを犯すくらいなら死んだ方がよいとする考え方もあるが、それはすでにセンチメンタルな考え方であり、少しぐらい『悪』いことをしてでも、やはり生きることのほうが大切であり、肯定されるべきである、という考え方になると思う」
・・・・おいおい。生徒に一体何を教えたいんだこの小説を通して。そりゃ、この指導書を唯一無二として捉えたら、先の先生のように「やめとこか」と思いたくもなるか(それもなんだかな、だが)。
もちろん、そういう解釈もアリですよ。僕も様々な解釈が可能、という線でこういう解釈についても触れるつもりです。でも、学校で授業するときにこれがメインに来るかねえ。このあたり担当教員の匙加減ひとつなのだけど、要は教材によって何をやりたいかですよね。生徒がどんなことを考え、どんなことに気づいていくか。この小説はいろんな側面があること自体小説の醍醐味に最初に触れる良い教材なのだけど、まさか『悪の勧め』を授業でやるヤツはおるまい。下手したら戦争是認にも発展しまっせ。政府の回し者か、この出版社は。
やっぱり僕はこの教材やります。目の前の生徒を考えると食いつきでコケそうでなかなか勇気も要りますが。そして、この指導書はもうアテにしません。さて、どういうふうに料理していくかな。日記書いてる場合じゃなかったんだ。仕事仕事。