S先生最後の授業

S先生は今年度で定年を迎えられる。今日が最後の授業である(ただ定年後も講師として3年間継続できる可能性はあるので、ホントにホントの最後の授業、ではないのだが)。幸い仕事と時間が重なっていなかったので、僕は授業を拝見したい旨既に申し上げていた。古典の授業だが、最後に文学史をやるんだ、面白くもなんともないぞ、とは仰っていたのだが。
一学期にこの先生が授業・僕がホームルームという担当で教育実習生を指導していたのだが、その際最後にその実習生の授業を実習簿において「空間芸術の如き授業であった」と評しておられた。これが「空間芸術の如き授業」なのだな、と思った。殊に授業の枕(あ、これは落語の言い方か。授業なら「導入部」と言うべきだったね)は、授業と言うより講演のような風情。また小人数の生徒の多くがそれにちゃんと反応している。
淡々と授業は続き、淡々と終わった。無論知識としては僕は知っていることばかりではあったが、なるほどなと思わされることもしきり。
授業者も淡々としていれば、僕の方も、「最後の授業」をビデオで記録するでもなく、花束を用意しておくでもない。
生徒が僕が何故居るのかと問うた時いみじくも仰った。
なに、最後だというので記念に来たのだろう。しかしまあ、記念とか区切りとかいうのは人間が勝手に決めるのであって、時の流れに切れ目はないのだ、と。
その通りなのであろう。この先生と同じになりたいわけではない。考え方や解釈には、「違う」を通り越して「理解に苦しむ」と思うことさえある。が、確実に人と違う、突き抜けた視線と思想をお持ちの大人物だ。こんなふうに淡々と行きたい。それはかなり強烈に思った。