いかにハマッているか

スイミング・プール」をもう一度観て来た。だいぶわかって来た気がするが、まだまだあやふやだ。だが、これがいい。帰りに監督の手によるノベライゼーションも買ってきたのだが、どうもこれは「意味」を限定しすぎてしまっているらしい。今は勿論気持ちとしてはいわゆる「正解」が知りたくてしょうがない状態ではあるが、きっと「限定」されてしまうとガッカリするんだろうなあと思う。
名画「2001年宇宙の旅」がそうだった。僕はあの映画、そしてスタンリー・キューブリック監督が大好きだ。あの映画はアーサー・C・クラークの短編小説を気に入ったキューブリックがそれを膨らませて映画を作ったのだが、クラークと共同で脚本を作り、同時進行でクラークは小説「2001年宇宙の旅」を書き上げた、という経緯は有名。だからこの作品については原作と映画化、ではなく、小説版と映画版、という関係になる。ところが、小説版はあまりに明確に説明し過ぎているのだ。生粋のSFファン(空想科学小説ファン)は映画版を「SF映画」と呼ぶことを嫌うと言う。抽象的すぎるのだ。その意味では僕は決してSFファンにはなれない。何よりあの映画の抽象性が好きだからだ。小説を読んで確かにスッキリした部分はある。が、同時につまらなくも感じた。映画版の一番の魅力は、その不可解性、様々な解釈と際限ない想像性を喚起する映像威力にあったからだ。
おそらく、似たようなことがこの映画にも言えるのだろう。「文学性」に限っては映画は小説に及ばないと言われ、ほんのちょっと僕もそれはわかる気がするのだが、映像による表現というやつには、文学では絶対に成し得ない表現の威力があり、深みがあり、幅広さがある。この映画は相当にその特性を活かしているから、いかな監督自身とは言え小説版は一個の回答例としかなりえていないと思う。こいつは本当に拾い物だった(大変失礼な言い草だが)と思う。誰か観てみてよ。そしてあれやこれやと議論するのに付き合ってよ。