ちょっと待ちながら

楽しめぬなら待たぬがよい、と、以前書いた。見返りを求めるなとも。待ってて浮き浮きしたりアレコレ考えたり…まあこれが、何よりの見返りだろう。
待つこと、そのこと自体が見返りになるなら、時は至宝である。そうでない時、待つことは相手への責めを募らせる。
特定の何かでなく、まだ見ぬ何かを待つこともある。自分から動かずじっとしていることは消極的な姿勢と思われがちだが、そうは思わない。待つことは勇気の要ることだ。
肝心なのは、待つべき時、待つべき相手を見誤らないことだ。自分が動く勇気がないのを、「待っているのだ」ということに摩り替えてしまうのが一番罪深いと思う。身勝手に「善意」のラベルを貼り付けて売りつけているに過ぎない。これを偽善と言い、逃げと言うのだろう。
待つというのは、とりも直さず相手への信頼であり愛であるだろう。それがなければ苦痛でしかない。苦痛でもなんでも待たねばならない時も、勿論ある。だが、自分が「待つ」と決めたのであれば、その時点で責めるべき相手は何人としてない。待たれて迷惑な相手だってある。待ってないで動け、と思われているかもしれない。単なる自分勝手を偽善に置き換えてしまいかねない危うさを内包する行為が「待つ」ということ。
コワイなあ。酔っ払って書いてるので、とりとめがないばかりか筋もメタメタなんだろな、後で読んだら。まあいいや。