万年筆箱② 拘る(2002年10月の文章)

 パソコンを使いはじめて三年、携帯電話を持って一年半、そしてインターネットを繋いで三週間になったところだ。IT化・デジタル化が恐ろしく遅い。
 使い始めてみれば、こんなに便利なものか、と、つくづく感じる。道楽で友人と年に一度本作りをしているから、なおさらそう思う。原稿を書くのにも打ち合わせたり途中経過を報せ合ったりするのも、本当に苦労がない。
 しかし、何人かの同好の士と話していると、皆さんいきなりパソコンに向かって作文をするという。商売柄プリントを作ることが多い仕事仲間もご同様。どうやら一度手で下書きしてからパソコンは手直し・清書に使うだけ、というのは僕だけらしい。勿論ごく短い文章や急ぎの仕事はダイレクトにパソコンに打ち込むが、どうしてもそれでは「ちゃんと」文章と格闘した気がしない。下手が下手なりに最善を尽くしたという安心がない。
 これには、単純に僕のキー操作がのろ過ぎるという事情もある。頭の回転に少しでも書くスピードが追いついていなくては、作文にストレスが伴うのは当然のことだ。だがどうしても問題はそれだけではないように思えてならない。
 肉体を動かさないと頭も動かない。
 そう考えるのはアナクロに過ぎるのだろうか。ロマンティックに過ぎるのだろうか。
 「読まなくなる」ということは「考えなくなる」ということだというのは、今の子どもを見ていてつくづく思うことだが、同様に、「書かない」ということも「考えない」ということになるのではあるまいか。ここで「書く」とは「手で書く」という義なのだが。―とまあそれは僕ひとりの幻想であるとして、とまれ僕自身は原稿用紙にまず書かないと収まらないのだから仕様がないのである。そうなると、―強い筆圧で大量に文字を書くとなると、「何で書くか」は大問題なのであって、行き着く処は万年筆ということになる。やっと本題に入った。
 万年筆を持つ、ということにはいろんな意味がある訳だが、やはり何より手に負担がかからない筆記具となればこれを措いてない。こんな良いものがあって本当にヨカッタ! だが大変なのは実はそこから。自分の手に合うペンというものに、なかなか出会えるものではないのだ。ただでさえ単価が高くつくもの、一体
何本巡り巡ったことか。無論買うに臨んでは念入りに試し書きをさせてもらうのだけれど、実際に自分に合
うものであったかどうかは暫く使ってみないとわからない。よく手に馴染むまで使い込むのがダイゴ味とい 
うことがいわれてモンブランのB(太字ペン先)など典型なのだろうが、僕はペンに負けてしまったクチだ。まあ今では「ペン先を調整してもらう」というテを覚えてわざとBを選んだりする。現に今これを書いているのがそうだが、まあバシバシ書いても平気なこと。東京品川の著名なペン先調整の店フルハルターの森山先生に研いでいただいていまやこれこそ愛用品となっている。
 そもそも何を以って「書き易い」というのかは人によって全く様々なのだそうだ。僕は勿論滑るように書ければそれに越したことはない。ある程度知恵がつくと考えるようになる。自分は筆圧が強いからバンバン書くには腰の強いモンブラン、という頭があった。が、万年筆に持ち替えると力を抜いてさらさら書けるようになるので、むしろ逆の個性、柔らかなペリカンの方が良いのかな、と近頃思うようになってきた。これにセーラーの長刀研ぎを加えると、今僕が思う世界の三強ということになる。ここに至るまでに随分と遠回りをしたものである。もっとも、現在「最後の一本」と目して夢見ているペンがあって、それはフルハルターで書かせていただいたエイチワークス製カスタムペンである。注文してから二年は待たねばならないらしい(ペン造りは副業であること、隅々まで妥協を許さぬ完全自家製品であることがそうさせるとのことだ)。べらぼうに高くもつくのだが、今度東京に行く機会があれば絶対お願いしてくるつもりだ。これはもう、極太のペン先で。二年先の夢というだけで、もう浮世離れしたロマンがあるではないか。十分なネウチはありますよ。
書き味の話に戻れば、一番肝心なのはペン先であるけれども軸の太さ重さ重心の在り処も実は大きな問題なのだった。僕は手が小さいクセに結構太くて持ち重りのするものがいい。これは手の大小でなくペンの何処を持って書くかだそうで、僕はかなり先端の方を持つ。だから外したキャップは尻には差さないし(うしろに傾くから)、重いのがいいと言っても重心は限りなく先に近いのが良いのであった。仙台大橋堂のペンはその点、ペン先近くに金環を巻くので理想的なバランスを生み出す訳なのだ。
 話が実にマニアックになったけれども、これだけこだわれば(この「こだわる」は昨今流行の、一流人士が細心にまで心を配る、の意にあらず、本来の「拘泥」の意味と取ってください)、字を書くこと文章を書くことが楽しい。無論創作は、才がないだけに苦しい営為であるのだけれど、書くという作業そのものが楽しい。書くことが楽しいというのは、何だか随分結構なこと、というかゼイタクなことのように、近頃思えてならないのだがいかがなものか。