万年筆箱① パソコンと万年筆(99年11月)

(以前ホームページを作るつもりでいて、そこにペンネタのエッセイも書いて行こうと思っていました。そのために古い文章も含めて集めてまとめていたものを順次こちらに挙げさせていただきます。最初のこの文章は5年も前のものでかなりお恥ずかしいのですが・・・・。前の職場の卒業生の方は目にした人もいるかもしれません。)
一念発起してパソコンを買った。前々から考えていた事だが、きっかけとなったのはデジタルカメラだった。撮った写真をプリントや通信に取り込んで本文も自由に編集する・・・やりたい事はそんなものだったが、雑誌などで情報収集をはじめてみると、まあパソコンというのはいろんな事のできる便利なものだということがわかってきた。写真の補正やデジタルビデオの編集、ビデオからのスチルの取り込み・・・。勿論インターネットも。こうなってくると居ても立ってもいられず、大枚を引き出して日本橋に行ってしまった。周辺機器も含めるとドえらい出費だ。今はちょっとの時間を見つけては機械に馴れようとしているが、忙しくて暇はないし、わからない専門用語にとまどうし、もともと機械オンチだし・・・で、まだちっとも使いこなせずにいる。プリンターをインストールするのに半時間もかかったり、電話回線につなごうとしたら「モデムとつながりません」と出てきてそのまま放ったらかしになっていたり。高いカネ払ったのに少しも使いこなせず「ただの高価なハコ」にしてしまわないようにしないと。ムダ遣いできるご身分ではないのだ。
 そうは言っても、やはり主に使うのは「ワード」、つまりワープロ機能だろう。プリントを作ったり、自分の原稿を書いたり。今はシャープのワープロを使っているのだが、実は直接ワープロに向かって作文するという事が僕にはできない。この文章も、二百字詰めの原稿用紙に下書きしてから清書としてパソコンで打ち出すつもりだ。まわりの人に聞いてもこんな奴は殆どいないようだ。小説でも大抵の人はダイレクトにワープロやパソコンに打ち込んで作文しているらしい。「下書き→清書」の二度手間も省けるし、わからない漢字も変換機能でいくらでも使いこなせる。明らかに直接ワープロで作文した方が合理的だ。それなのに、できない。わざとしていない訳ではないのだ。
 文才がある人と違って、ちょっとした文章でも四苦八苦して完成させる。直に自分の手から文字に置き換えなければ、そして更に何度も読み返し書き直しして行かなければ、「自分の言葉」として文章が完成しないのだ。作家丸山健二は、その著書「まだ見ぬ書き手へ」の中で、小説を書くのならまず最初から最後まで手で書き通し、読み返してまた必要な直しをしながら改めて最初から最後まで書き通す。それを三度は行えと言っている。本当はそれがいいのだろうと思う。同じ作家でも安部公房は、ワープロが開発された時すぐにこれを導入し、「これこそ僕が小説を書くために生まれたもの」と感じたそうだ。以来ワープロ入力で多くの名作を輩出したのだから、一概には言えないのだろうけれど。僕だって三度も四度もいちから書き直すなんてとてもできないが、まずは紙に書いては読み返して直し、それをワープロに打ち込みながらまた直し、更にプリントアウトしたものを読み返してまた直し直して完成させていく。最後まで、直しの作業は手書きで行う。
 そんな調子だから、大量に手書きするに適した筆記用具を常に探している。筆圧の高い僕にもすらすらと抵抗なくいくらでも書けて、長時間書いても疲れないもの。直す時に色を変えられるとなお良い。鉛筆が本当はいいのだと思う。しかし鉛筆は少しこすれると消えてしまうし、すぐチビて削らなくてはならない。そこで僕は、以前から万年筆を愛用している。
 万年筆というと、地位のある人、年配の人のものというイメージがあって、僕のような若造(まあ大人の中ではまだ小僧だ)が生意気な、と思われそうだ。高価でもある。が、一度あの書き味を覚えてしまうと、ちょっと他のものでは代用が効かない。インクの色も様々あるが、これがまた深くていい。手入れに手間がかかることさえ「その分愛着が湧く」と思えてくることになる。使い込めば手に馴染んでペンの方が書き癖を覚えてくれる(らしい。まだそこまで使い込んだペンはない)。そして、美しい。万年筆は工芸品と呼んでもいい。繊細な構造を持つインクの流動・充填システムも、ミリ単位の手作業で作られるペン先も、また様々な意匠を凝らしたペン軸も、一本一本に個性がある。だから、店頭でいいものを見つけると、ついそのペンで字を書いてみたくなる。そういう訳で僕は何本か万年筆をもっている。我ながら、これは本当に身分に合わない道楽なのだと思う。人が見れば笑われるに違いない。だが、人にはそれぞれ無駄遣いをする所があるので、ある人はパチンコに費やし、ある人は美食・飲酒に明け暮れ、ある人はファッションやオーディオに凝る。少しお金がたまると旅行に行く人もいる。みな興味のない他人には「浪費」としか見えない。僕はそれが万年筆なのだ、と言い訳をしているが、それにしてもこいつは単価が張りすぎる。
 初めて手にした万年筆は、高校入学の記念にと、祖母から贈られたものだった。パイロット製、シャープペンシルと二本セットのスチール仕上げ。これにブルーのカートリッジを使っていたのだが、友人と自転車の2人乗りをしていて落としてしまい、うまくインクが出なくなってしまった。その後500円の安物と、人から贈られたこれまたパイロットのものとを併用していたが、いつの間にか殆ど使わなくなっていた。確か卒業論文は使い捨てのボールペンで書いたと思う。
 それが、数年前、学生時代の友人からモンブランの逸品を見せびらかされてまた火がついた。折り良く(悪く?)雑誌等で万年筆特集が組まれており、見ると世界の様々なメーカーが、色とりどりの、中には限定製作の美術品のようなペンを販売していることを知ったのだった。今この文章の下書きに使っているのは、イギリスのコンウエイという老舗メーカーが数十年ぶりに復活したのを記念して作ったものだ。細字のペン先、カゼインという素材で一本二年かけて作られた軸を持ち、その軸には限定300本中の188本目であることを示す数字が刻印されている。実際、悪筆で貧乏タレな公務員にはもったいなさすぎる事は本人もよく承知している処である。恥ずかしくて、いくらで買ったのかは誰にも話せない。
 パソコンと万年筆。どちらも贅沢なものだが、デジタルとアナクロ、並べて見ているとこれが両立するものかと思うが、どちらともがこれからの僕にとって大切なものになって行くと思う。僕の内面にある思いや衝動はアナクロなペン書きによって形を得、これからはそれをデジタルの処理によって整理、活用して行きたい。
 「言葉」というものには、守っていかなければならない文化という側面と、変化についていかなければならない生き物という側面がある。双方のバランスをこころえて使って初めて生きて機能すると思う。言葉は表現の道具である。使う人間そのものも、守るべきものと変わるべきもの双方へのバランス感覚を持たなければ、このめまぐるしい世代を活き活きと生きては行けないと、僕は思うのだ。(1999年11月 これが原点。以下重複した内容も多く語ることになる。考えることに
進歩のない男である。)