映画 嗤う伊右衛門

京極の原作を読んだので、観てみたいなと思っていた。そもそも京極初体験。友人Yが「巷説百物語」を薦めてくれて、それを買おうと思ったら横に並んでいたこっちの方が気になって買ってしまった。大学で近世をやっていたから、忠臣蔵や(その裏表的な性格を持つ)南北の東海道四谷怪談には馴染みがあった。歌舞伎も観た。勘九郎幸四郎のん。今は亡き深作欣二の「忠臣蔵外伝・四谷怪談」はふたつの世界を意識的に結びつけて面白かったなあ・・・・。などと思いながら読んだ。最初は文体に辟易した。キザやなあ! なんでこんな難しい言葉・漢字をわざわざ選んで使うのか・・・・でもじきにストーリーと人物造形に引き込まれてむさぼるように読みきっていた。読んでる途中で作者直木賞受賞の報を聞いた。面白かった! これは斬新! しかし、この長い小説を2時間前後の映画にどうやってするのだろう? ある評で「忠実に映画化」とあった。不安になった。僕は小説と映画は違っていた方が面白いと思うクチだ。ガラッと変えて来てくれる方が好きだ。「原作のダイジェストに終わるんじゃないか?」と懸念した。しかし、監督は蜷川だ。学生の時に蜷川演出の仮名手本忠臣蔵を観て惚れ惚れした。ただ、世界の蜷川も映画の方は評判芳しくない。・・・・まあいいや。ともかく観てみよう。
うまいなと思った。上手に刈り込んでまとめている。エグい処も妙に上品に処理せず全部映像化して見せ付けているが、それでも品があるし。もちろん原作で腐心された各人物の掘り下げは、これは止むを得ない。複雑なストーリーの「仕掛け」も、きっと原作を読んでいないとわかりにくい。とは思うが、重要なのはその辺ではない。大きく違う処が2点。主人公伊右衛門と岩とのすれ違いが、さほど感じられないところがひとつ。原作では、互いに想いながらも、どうしても向い合うと諍いを起こしてしまう二人。映画では、一度の喧嘩を経て明らかに二人は理解しあっていた。あれでは後の悲劇が、岩の決断が劇的にも必然的にも思えない。もうひとつ。二人が再会する場面が、映画のオリジナルとして挿入される。オリジナルは歓迎。でも、あの場面はどうかな。四谷怪談といえばお馴染みの「恨めしや伊右衛門どの」という台詞を、従前と全く違うニュアンスで聞かせたかったのはわかる。だがあそこまで描いてしまうと、すぐその後に岩がどうなったかがバレバレになるし、観客が自由に想像する余地が消されてしまう。せめてあの場面を入れるなら、現実だったのか伊右衛門の幻想だつたのかあやふやに表現するべきだった。刀の柄に手をかける瞬間など断じて見せて欲しくなかった。この2点については不満が残る。しかし、キャストの妙、映像の説得力、ラストのぶっ飛んだ処理、先述のうまい刈り込み方、全体には不安をふき飛ばしてくれる良い出来だったのでは、と思う。出演者はみんな高く評価されるのではなかろうか? そしてもちろん監督も。